日本文化を守るために個々人の人生を犠牲にする、愚劣な教育政策だ。
今後、世界中の、あらゆる価値ある知識は英語で生産され、英語で流通する。
インターネットの普及が、その流れをますます加速している。
世界中の知的にパワフルな人々は、ますます母国語よりも英語で読み、英語で書き、
英語で議論しながら、価値ある学術的成果・文化・商品・サービスを創り上げていくだろう。
知的コミュニティというのは、そこに参加する人の知力の二乗に比例して価値が増大するから、
ひとたび、知的にパワフルな人々が英語コミュニティで知的なコラボをはじめると、
雪だるま式に、知的な人々が世界中から吸引されてしまい、
他の言語は、知的にパワフルな生産活動の場ではない、寂れた言語空間となっていく流れにある。
そうして、日本語圏は、三流芸人が軽薄にバカ騒ぎするバラエティー番組や
スポーツマンや芸能人の下半身の話題をさも重大事件のように扱うゴシップ雑誌、
知性のかけらもない動物的で脊髄反射的なネット書き込みばかりがあふれる言論空間に堕ちていく。
書店の本も、ネット上の文章も、日本語のものは、ますます知的に貧弱になり、
英語圏のものは、ますます豊かで豊饒で活力に満ちたものになっていくだろう。
これらは、ずいぶん昔から言われてきたことだし、とくに目新しい意見でもない。
水村美苗氏は、この流れを概ね認めているという点では、きわめて常識的だ。
問題は、その現状認識にたった上で行われる、彼女の主張だ。
日本近代文学大好きな小説家である彼女は、以下のような主旨のことを主張する。
「国語」としての日本語の衰退を防ぐために、
日本の学校教育の国語の時間数を増やし、
全ての学生に日本近代文学を読み継がせることを
日本の国語授業の主眼にすべきだ。
しかし、この考え方は、
「個々人のかけがえのない人生を、日本文化に奉仕させる」
というものだ。
重要なのは、文化でも社会でも国家でもなく、個々の人間の実存だ。
日本文化を守るために、
現にいま、こうして生きている個別具体的な人間のリアルな人生を削って奉仕させる
など、本末転倒もいいところだ。
文化のために個々のリアルな人間が存在するのではなく、
個々のリアルな人間の生を豊かにするために文化が存在するのだ。
個々の人間のリアルな生が輝くのなら、日本文化など亡んでもかまわない。
そして、文化人達は、萩原朔太郎の詩を味わうことすらできない大衆ばかりになると、
かれらは文化的基盤を失って、根無し草になり、
個々の人間のリアルな人生までが台無しにされてしまうようなことを言うが、
むしろ、逆である。
近代日本文学にこだわりすぎるほうが、よっぽど個々のリアルな人間の生は台無しにされかねない。
いまや恐ろしい速度で科学も技術も社会も発達し続け、
人材育成、技術開発、商品開発は、世界的な競争に厳しく晒されてている。
身につけるべき基礎学力がますます高度なものが要求されている現代において、
英語、数学、科学、社会などのための時間を削って、
日本近代文学を読み継ぐための時間の割り当てを増やすことを「強制」する
というのは、国家暴力による、子供たちの将来の破壊だ。
近代日本文学が好きな子供たちもいるだろうが、それ以外の、
「近代日本文学より、はるかに英語、数学、科学、社会に惹きつけられる子供たち」にとっては、
楽しい数学や科学の時間を削って、退屈な近代文学の学習を強制的に学ばされるのは
ある種の拷問に似ている。
また、ネット上の娯楽ですら、映画でも音楽でも英語圏のものがますます充実し、
それらの英語のネットコミュニティやSNSも充実していく中で、
日本近代文学などより、英語をもっと勉強し、世界中の人々と繋がっていきたい
学生もますます多くなっていくだろう。
どの学習課目にどれだけの時間を割り当てるかは、
子供たちの未来を「賭ける」という、人生でもっとも重大な回避不可能なギャンブルの一つだ。
一つ間違えば、将来、つきたい職業につく自由を奪われてしまう。
下手したら、低賃金で退屈なルーチンワークをするしかない人生になってしまうかも知れない。
それは、人生を決定づける重大な選択であり、
親子でよく話し合って、その将来リスクまで含めて納得ずくで選択すべきものだ。
だから、学校の学習課目や授業時間数の割り当ては、
できるかぎり、各学校の自由裁量に任せるべきであり、
学校の教職員、親たち、子供たちがよく話し合って、カリキュラムを決めるべきだ。
また、自由に学校を選択できるようにし、
できるかぎり、自分にあった学校の教育方針やカリキュラムの学校に通うことができるようにすべきだ。
もちろん、最低限の数学、ごく初歩的な科学の基礎、歴史、地理、公民などは、
国家が強制すべきだろう。
しかし、何をどれだけ時間をかけて学ぶか?についての国家介入は、
最小限にとどめるべきだ。
何をどれだけ学ぶか?についての人生の選択について、
国家が間違っていることがあとから分かっても、国家はその責任をとりようがないのだ。
近代日本文学の学習は、あくまで、
それを選択したい人が選択すればいいのであって、
国家がそれを強制すべきようなものではない。
そもそも、現在の多くの日本国民は、
有権者としての最低限の知識すら身につけていない。
どの政治家に投票すれば、自分たちの暮らしが良くなるのかを
判断するための基礎知識が決定的に欠落しているのだ。
どの政治家に投票すれば暮らしが良くなるのかを知るには、
夏目漱石や芥川龍之介を読むより、
現代経済学の教科書を読む方が、何百倍も効果的だ。
- 作者: N.グレゴリーマンキュー, N.Gregory Mankiw, 足立英之, 小川英治, 石川城太, 地主敏樹
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2005/09
- メディア: 単行本
萩原朔太郎の詩を深く味わう感受性が発達しているけれども、
愚かな政治家に投票して
ますます自分の暮らし向きを悪くしてしまうような人間を
作り出してしまうような教育が、果たして価値ある教育なのだろうか?
そのような教育を、国家が強制するようなことが許されるのだろうか?
感受性豊かな、美しく愚かな日本人。
政治家にとっては、ある意味、理想的な国民かも知れないが。
また、情熱の赴くまま、プログラミングやコンピュータサイエンスに没頭し、
英語圏のプログラマーたちと英語で情報交換しながら、
自分のITスキルを磨けあげていくほうが、
その時間を削って、興味のない日本近代文学を学ぶより、
よっぽど、将来自分のなりたい仕事に近づけるかも知れない。
梅田望夫氏や小飼弾氏のように、生まれつきずば抜けた知的ポテンシャルに恵まれた人々なら、
英語、数学、科学、社会などの科目にさく時間やエネルギーを削って
近代日本文学に割り当てても、さしたる影響はないかもしれない。
むしろ、人生が豊かになるだろう。
しかし、ほとんどの「普通の人」はそうではない。
かれらの知的リソースは限られている。
あれもこれも頭に詰め込むこもうとすると、一つ一つに割り当てられる時間もエネルギーも、
どんどん不足し、中途半端になっていってしまう。
そういう、普通の人達にとっては、
最低限の基礎以外は、将来動向と自分が情熱をもって取り組める教科のバランスを
とりながら、教師と親子で相談しながら自分たちなりにカリキュラムを選択していくのが、
結果的に納得のいく、充実した人生に繋がるのではないだろうか。
(もちろん、その結果として「近代日本文学」を選択することで、自分の人生を豊かにする人達もいるだろう。しかし、それはあくまで、国家の強制でなく、個人の自由選択の結果でなくてはならない。)
坪内逍遙や志賀直哉を知らなくても、
幸せそうにRuby on Railsでのシステム開発に没頭しているプログラマなど、いくらでもいる。
近代日本文学を知らない彼らの人生が、文化的ルーツを持たない根無し草の貧しいものである、
という感覚は、文化人のエゴに過ぎない。
逆に、プログラム開発の麻薬的な面白さに取り憑かれ、寝ても覚めても
エキサイティングなプログラムのことであたまがいっぱいで、
頭の中でより美しいアーキテクチャを求めてオブジェクト構造がぐるぐる組み変わっていき、
寝る時間どころか食事の時間まで惜しんでプログラムに没頭する、
あの陶酔感に満ちた世界を知らないまま一生を終える文化人の方が、
よっぽど貧しい、同情に値する人生に思えることを、彼らは知らないだけだ。
また、水村氏は、一部の知的エリートのみを、日本語と英語のバイリンガルとして育成し、
外交や国際会議やネットで世界中の知的エリートと渡り合って、
日本の国益を確保すべきだ、などというが、それは非現実的だ。
たしかに、スーパーの店員やクロネコヤマトの配達員が英語を話せたり読み書きできたりする必要はない。
しかし、ITエンジニアや、バイオ関係者、さまざまなビジネスマンなど、普通の人々の20~40%ぐらいは、
英語を読み書きできるのと出来ないのとでは、仕事の質と生産性に大きな違いがでてくる時代が、
もうまもなくやってくる。
とくに、パソコンを使った、相手の繊細な息づかいや、微妙な表情の変化まで伝わるような、
超高性能テレビ電話があと10年もすれば、普及する。
インターネット回線が太くなり、マイクとモニターの性能がどんどん上がっていくからだ。
これにより、日本のほとんどの企業は、オンライン越しに英語圏の知識労働者をプロジェクトに
組み込むことがますます当たり前になっていく。
そうなると、日本においても、彼らとコラボするために、ますます英語の会議が増えていく。
一部の知的エリートだけがバイリンガルであればいい時代の終焉は、
もう、すぐそこまで迫っているのである。
そして、梅田望夫氏や小飼弾氏のような、ウルトラスーパーエリートにとっては、
たいした負担ではないかも知れないが、
せいぜい上位20~40%ぐらいのごく普通の日本人にとって、バイリンガルになるということは、大変な負担だ。
このため、学生時代は、バイリンガルになるために大量の時間を使わざるを得ず、
その時間を削って、近代日本文学の学習に大量の時間とエネルギーを割り当てるなど、
時として自殺行為になる。
つまり、行われるべき教育は、水村氏の提案と、まさしく逆で、
近代日本文学は、梅田望夫氏や小飼弾氏のような、余裕のあるスーパーエリートたち
こそがたしなみ、ハイソな社交の場で、明治の文豪達の苦悩に
思いを馳せればよいことであって、
知的リソースの台所事情の厳しい一般大衆に無理やり時間を削って教え込むべきものではない。
梅田望夫氏や小飼弾氏ほどの余裕のない、その他大勢は、
限られた知的リソースを自分の選択した学問・知識・スキルを学ぶために費やす自由を与え、
たった1回しかない、他のいかなる人生とも、絶対的に交換不可能な、
自分のリアルな生を自分の選択で生きられるようにすべきなのではないだろうか。
極論を言えば、それで日本近代文学をたしなむ人口が激減し、日本語が衰退するというのなら、それはそれでかまわない。
個々のリアルな人間は、「日本人」でも「国民」でもない。
そういう抽象的な存在であるまえに、絶対的にリアルに存在する、
いかなる抽象化も受け付けないような具体的な存在なのだ。
個々の人間は、それ自体が究極の目的であって、
それは決して他の目的の手段であってはならない。
それがたとえ「日本語を守る」というような、
崇高な目的であっても、
その目的を達成するための手段として
個々の人間の実存を削ってよいということにはならないのである。
しかし実際は、そもそも、この意味で日本語が衰退したところで、
日本文化が亡んでしまうわけではないだろう。
む しろ、英語の中に日本文化を取り込んでいくことで、より豊饒な進化を遂げる可能性だってあるのではないだろうか。たとえば、英語の文法をベースとしながら も、世界共通の英語のスーパーセットの形で、英語の中に日本語のひらがな、かたかな、漢字、顔文字、絵文字が混在するような、日本発の英語文化が生まれる 可能性はないだろうか。100年後には、英語自体が様々な国の2バイト文字を取り込んで、ずいぶんと豊饒な進化を遂げている可能性だってあるのではないだ ろうか。その中に、日本語を語源とする多くの2バイト文字が融け込んでいる未来というのはないのだろうか。日本が、世界語の体内で息づいている未来というのはないのだろうか。
もちろん、かつて、近代日本文学が誕生するときに、それ以前の日本語文化との間に出来てしまった以上の断絶はできてしまうだろうが。
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