北京オリンピックが終了した。
既に多くの人は理解しているだろう。これからが本番だ。
改革開放が鄧小平の「豊かになれる者から豊かになれ」という言葉と共に始まって以来、中国は世界経済へ労働力の供給地として、高度経済成長を続け てきた。中国経済のプレゼンスは拡大し、世界に冠たる大国としての中国という意識は、中央政府から一般市民に至るまでに浸透した。
その自己認識を世界に広げ、自他共に世界の大国となるためには巨大なお披露目のイベントが必要である。それが北京オリンピックだった。
北京オリンピックを盛り上げるため、中国政府はありとあらゆる権力を総動員した。必要な土地は住民を強制的に立ち退かせて収容した。競技施設は地 方から出稼ぎに来た「民工」と呼ばれる労働者により突貫工事で完成した。完成後、民工らは北京から退去させられた。北京オリンピックの施設を建設した彼ら は、中国政府が世界に威厳を示すためには都合の悪い邪魔者だった。
会期中、多くの者が北京から退去させられた。多数いた乞食も、地方の汚職官吏を中央政府に告発するために北京にやってきていた「上訪(陳情のこと)」の人々も、オリンピックにふさわしくないとして北京を離れざるを得なかった。
中国政府は北京周辺における自動車の交通も規制した。あまりにひどい大気汚染を、会期中だけでも緩和するためだった。テロリストの襲撃を恐れて主 要施設には対空ミサイルを配備し、郊外では降雨を制御するためのロケットを打ち上げた。会場近くでは観客を圧倒するほどの警備関係者が動員された。
オリンピックはおおむね成功したと言っていいだろう。しかし、中国政府の狙い通りに「歴史と文化を誇る、世界の大国中国」を世界に印象づけることに成功したかと言えば、かなりの疑問が残る。
聖火リレーは、チベットの人権問題との関連で、行く先々でトラブルを起こし、「人権問題を抱える中国」を世界に印象づけた。会期中、北京でこそテロは起きなかったものの、新疆ウイグル自治区では中国からの独立を主張するイスラム教徒によって爆弾テロが発生した。
開会式テレビ中継で華々しく打ち上げられた花火は、コンピューターグラフィックスだった。美しい声で歌う美少女の声は、別人が歌ったものに口パクで合わせたものだった。
ここ数年、世界は幾多の中国製品によるトラブルを経験している。有毒の鉛が検出されたおもちゃ、基準以上の残留農薬を含む野菜。パナマでは、ジエ チレングリコールが混入した咳止めシロップで死者がでたし、北米では中国原産小麦を使ったペットフードでペットが死ぬという事件が起きている。世界に氾濫 する偽ブランド品や著作権無視のCD/DVDは、世界中の人々に「中国はフェアな商取引の相手となりうるのか」という疑念を抱かせている。もちろん我々に とっては、有毒のメタミドホスが混入した冷凍餃子の事件は記憶に新しい。
少なくともオリンピックは、このような中国の悪いイメージを国際的に払拭するには至らずして閉会式を迎えた。
熱狂の後には必ずリセッションが来る。既に上海の株式市場は後退局面に入っている。
そしてオリンピックが終わった北京には、大気汚染と共に彼らが戻ってくる。働く場を探しに民工たちが、生きる場を求めて乞食や浮浪者が、汚職官吏や汚職官吏を放置する地方政府への怒りを胸にした上訪の人々が。
今後中国がどうなっていくかを考えるためには、これらの人々――経済成長の恩恵にあずからず、貧しさから抜け出すことができないでいる人々――を知ることが必要になる。
彼らがどんな状況に置かれており、何をどのように感じて生きているのかを理解せずに、中国の未来を考察することはできないだろう。中央政府の政治や、上海や深センといった沿岸地域の経済の状況だけでは、中国の未来は見えてこないはずなのである。
経済成長の成果を享受することができない人々の実際を記録した本はないかと探した結果、本書に行き当たった。
本書は中国の貧困層の中に入り込み、同じ目線の高さで彼らが何を体験し、何を感じ、何を考えているかをまとめたインタビュー集である。
登場するのは全部で31人。浮浪児、出稼ぎ労働者、乞食の元締め、国境不法越境の常習者、売春婦、同性愛者、葬儀の時に泣く伝統的な泣き男、かつ ての紅衛兵、えん罪で投獄された者、法輪講の修行者、迫害に耐えてきた仏教の老僧侶やキリスト教のシスター――本書の副題「どん底の世界」は伊達ではな い。紙面からは信じがたいほどの悲惨さがあふれている。人々は悲惨に打ちのめされたり、耐え難い状況と折り合いをつけてあきらめたり、あるいはあくまで不 撓(ふとう)不屈に逆らったりする。
著者もまた、ただ者ではない。著者の廖亦武(本書では老威というペンネームを使ってインタビューを行っている)は詩人。1989年の天安門事件で 事件を扱った長編詩を発表したために、反革命煽動罪に問われて4年間投獄された。その後、簫(笛の一種)を吹き自作の詩を吟じる大道芸人になり、四川省を 中心に中国各地を巡り、同時に最底辺の人々の間に入り込んで、本書のような中国庶民の実態をまとめた本を次々に出版している。
本書は底本となった『中国低層訪談録』(2001年に中国で出版)、同書の台湾版、中国で地下出版された続編の「中国冤案録」(2005年)、さらに著者の手元にあった未発表インタビューを日本に住む翻訳者がまとめたものである。
著者の本は中国では大きな話題となっているという。当局は著者の本が出版されるたびに発禁処分とするがその都度複数の海賊版が出版され、人々の間に広がっているのだそうだ。
海賊版は著者の収入とならない。しかし著者の主張を世間に広める助けとなる。余談ではあるが、海賊版により中国の人々が本書を知るというのもまた、ひどく「中国的な現象」に思える。
成都の浮浪児との対話
本書はいきなり成都の14歳の浮浪児へのインタビューから始まる。著者はそれぞれのインタビューの前文に、インタビューに至った経緯と日時を簡単 にまとめている。この張大力(チャン・ダーリー)という浮浪児には1996年1月16日の昼、成都の九龍橋の近くで会ったと記録している。本書のインタ ビューはすべて日付と相手の名前が記されている。名前については(明記されているわけではないが)仮名を使っている場合もあるようだ。
著者の文章はかなりインタビュー相手の話し方を忠実に再現したもののようだ。訳文も「おら」「あっし」といった一人称や「ですだよ」のような疑似 方言を駆使して、その雰囲気を再現している。また、現場の状況をよりよく伝えるためだろう、「浮浪児」「乞食」「売春婦」といった、最近の日本ではあまり 使わなくなった言葉もあえて使用している。
著者は達者なインタビュー術で、生意気な浮浪児からその生い立ちを聞き出していく。
張大力の両親は革靴の製造工場で働いていたが、給料が出なくなり革靴の現物支給となった。両親はそれを張に渡し、学校の学友に売ってくるよう言いつける。それは張にとって面子が立たない、耐え難いことだった。
おれだって、やりかえしたさ。
『大人に面子があるなら、子どもにだって面子があらあ! 靴を売るため、学校さえ行けなくなったじゃねえか!』
おれは、口答えしているうちに泣いちまった。おやじはおれの心を傷つけすぎたのよ。でも、ヤツになんか分かるわけねえ。学校は大人の社会と同じで、カネ があればなんでもできる。おれのようなリストラされたヤツの子どもは、貧しければ貧しいほどいじめられるのさ。(本書 p.14)
この短い段落だけでも、我々はさまざまな中国庶民の置かれた状況や、彼らの感性や行動様式を読みとることができる。子どもまでもがこだわる面子へ の執着。14歳が「カネがあればなんでもできる」という結論に行き着いてしまうほどに社会にはびこっている拝金主義。それは学校にまで入り込み、いじめの 原因となっていること。
「社会からドロップアウトした子どもの歪んだ物の見方だ」では片づけられない、事実のみが持つ圧倒的な迫力がここにはある。
家出をし、同じような境遇の浮浪児と暮らすようになった張大力は、「親のカネにものを言わせて、弱いものいじめをしていばりちらしている奴」を恐喝することで生計を立てるようになる。彼にとってそれは正義の行為だが、もちろん身勝手な屁理屈にすぎない。
著者は張に「それは犯罪だ」と指摘すると、彼は「おれはまだ十四歳だぜ。あんだどうするってんだい?」と問い返す。「少年院か少年教護院に送る よ」と答えると、張大力は「成都市全体じゃあ、おれたちみたいな子どもは、ほんとに多いぜ。学校に通っている子もいりゃあ、家出の子もいる。もしぜんぶ捕 まえたら、少年院を十カ所増やしても足らねえな。」(本書 p.19)と言う。
年齢離れした張の主張の背後には、香港や台湾で大量生産されているヤクザ映画の影響がある。街には安くビデオを見せる茶館が多数存在し、そこで張はヤクザ的なものの考え方を学んでいた。それらのビデオの少なからぬ量が海賊版であろうことは容易に想像できる。
過酷な境遇を生きる少年は、14歳にして大人並みの世間知を身につけている。
老威(著者のペンネーム): 社会では何回も学園の環境浄化キャンペーンを行ったし、しかも、マスコミはけっこう宣伝に力をいれてきたようだ。それでも、君は飯の食い上げにならなかったのかい?
浮浪児(松浦注:張大力のこと): 中国のことだせ。一陣の風のように過ぎていくだけさ。
老威: 「中国のことだぜ」だって! 君は未成年なのに中国のことが分かるのかい?
浮浪児: 大人がいつも茶館で言ってるぜ。耳にタコができてらあ。」(本書 p.21)
「上に政策あれば下に対策あり」という言葉通りだ。政府はさまざまなキャンペーンを張って政策の浸透を目指すが、庶民は冷めた目でそれを見て、自分なりの対応策で適応し、やり過ごす。そんな中国社会のありようが、短いやり取りからうかがい知ることができる。
浮浪児・張大力の姿は、日本に暮らす我々にとっても、そう縁遠いものではない。わたしが思い出したのは、かつて一世を風靡(ふうび)したマンガ 「あしたのジョー」(梶原一騎原作、ちばてつや画)の冒頭で描かれる主人公・矢吹丈(ジョー)の姿だった。ふらりと浅草山谷のドヤ街に現れた浮浪児の ジョーはドヤ街の子どもたちを引き連れて乱暴狼藉を繰り返し、警察に捕まり少年院に送られる。
張のような子どもは、かつて日本でも珍しくはなかったのだろう。その意味では、著者がインタビューを通じてあぶり出す張の様子は、わたしたちの想像の範囲内にある。
だが本書は、この後「本当にこのような悲惨さが地上に存在するのか」という事例を次々に紹介していくのだ。
病を恐れ、人を生きたまま焼き殺す
2005年年末に雲南省の農村で行われた張志恩(チャン・ジーエン)へのインタビューでは、農村部の絶望的なまでの無知が引き起こした悲劇が語られる。
張志恩は貧しい農民だった。若いときに原因不明・病名不明の病気になる。全身がかゆくなる病気だったが、村人はそれがハンセン病であると決めつ け、恐れ、張をハンセン病専門の病院に放り込んでしまう。別にハンセン病にかかっていたわけでもない彼は、退院が許されることもなく、ハンセン病専門の病 院で何年も炊事の仕事を担当していた。
やがて「いつまでも病院にハンセン病でない者を置いておくわけにいかない」と、退院になった彼は故郷に戻るが、すでに自分が耕すべき田畑はなく なっていた。ハンセン病の病院帰りということでひどい差別を受けた。彼は彼同様にハンセン病と誤診され、強制的に入院させられていた女性と結婚し、彼女の 持っていた田畑を耕して暮らすようになる。
その後、妻がまた病気になる。ハンセン病の症状ではなかった。しかし村人はハンセン病をまた発病したと誤解し、恐れ、ついには病気に苦しむ彼の妻を生きたまま焼き殺してしまったのだ。
“無実”の女性を焼き殺すことを、誰もが、村を守る正義の行為と思い込んでいる。もちろん公権力も介入しない。それどころか、張志恩は妻を焼き殺されたにもかかわらず、通常の葬儀のように村人に対して食事を振る舞わねばならなかった。
張志恩: (前略)村長が村人を連れて、おらの家に来て、飼っていたブタを殺した。梁にかけていたベーコンも取られた。まだ、女房を 焼いたところから煙が出ているうちに、数十メートルしか離れていねえところで、土のかまどを二つ作って、大きな鍋をかけて、一つでは肉を煮て、もう一つで はめしを炊いた。空がまだ暗くなっていないうちから松明をつけて、みんなどんぶりを持って、鍋のまわりに集まった。
老威: 村全体で、どれぐらいいましたか。
張志恩: 三十数世帯いて、一世帯から働き盛りの男一人が食べに来た。
悪夢のような光景だが、村人にとっては生活を守るための当たり前の行為だったのだ。
著者は張に対して、何度も「それはいつのことか」と問いただすが、きちんとした教育を受けていない彼は、時間の認識があいまいだ。妻が焼き殺された事件についても「10年ぐらい前だったか」としか話すことしかできない。
我々にはっきりと理解できるのは、1995年ころになっても、雲南省の農村では、ハンセン病に対する差別から、患者と疑われた者が村人によって焼き殺されるというような状況だったということである。
ハンセン病は、体が崩れていくために近代以前は非常に恐れられた病気だ。日本でも患者を専門病院に隔離し、閉じ込めるという非人間的政策が第二次 世界大戦後に至るまで実施されていた。しかし、実際には感染力は非常に弱く、治療法も確立している病気である。張の村にも医師が入り、病気に対する正しい 知識を伝えようとしている。
しかし村人は依然として、ハンセン病を、大蠱龍という毒蛇ののろいであると信じている。張本人も例外ではない。
張志恩: 女房が死んだあと、あいつが縫い上げた新しい布団を捨てるのが惜しくて、ついそのままずっと使ってただ。思いもかけなかっ たけんど、ある夜、おらは悪夢を見ただ。茶碗ぐらい太え毒ヘビが強く巻きついて、息ができなく、ナタで切ろうといても、腕が痛くて切れなかっただ。(中 略)夜が明けると、布団を引っぱりだして、畑の横で燃やしちまった。どうなったと思う? 布団から、なんと、油がしみだしてきて、肉が焦げる臭いもしたも んだ!(中略)
老威: 大蠱龍を焼き殺したのですか?
張志恩: 邪悪なまじないをかけられた布団を焼いただ。(本書 p.64)
妻を焼き殺されただけではなく、迷信にとらわれて、妻の形見を自らの手で焼いてしまうとは‥‥無知と迷信とが、途方もない悲劇を生み出す例が、ここにはある。
恐るべき「厳打」によるえん罪
本書には政治に人生を左右された人々も多数登場する。なかでも1983年以降、中国政府が展開した「厳打」というキャンペーンによって人生を狂わされた人は、中国全土では相当数存在するようだ。
「1983年の『厳打』運動は、中国の多くの家庭にとって悪夢だった。」(本書 p.208)と、著者は書き始める。
この年、「二王銃撃連続殺人事件」という大事件が起きた。軍で銃の訓練を受けた兄弟が殺人事件を起こし、さらに中国全土を逃げ回り、各地の警察と銃撃戦を引き起こしたのである。
これを受けた中央政府は「厳重に迅速に犯罪を取り締まる政策」、通称「厳打」という一大キャンペーンを展開した。
中国の行政システムのような上意下達の組織では。上の言い出したキャンペーンは、「必ず成果を挙げなくてはならない」ものとなる。そして社会主義政策の残渣(ざんさ)で、成果は数字で表すことができなくてはならない。
その結果、犯罪取り締まりの末端において厳打は「何人の犯罪者を取り締まったか」を競うものとなった。取り調べは正確さを犠牲に迅速化され、司法は簡略化された。その結果、恐ろしい数のえん罪が量産されることとなった。
本書には左長錘(ズゥオ・チャンチュン)という、辛くも厳打キャンペーンから生還した人物へのインタビューが収録されている。
2002年4月1日の晩、『“上訪(陳情)”者用簡易旅館』で話を聞いた時にも、彼の心にはまだ恐怖が消え去っていなかった。『厳打キャンペーンでは、司法は簡略化されたのです』と彼は言った。ぼくが『簡略化といっても、どの程度ですか』と尋ねると、彼はこういった。
『警察、検察、裁判所が一つの長椅子の上に並んで座って裁判をするのです。ひどい場合には一本のズボンの中でします。逮捕した当日に、何の証拠もないのに判決を下すのです』」(本書 p.208)
左長錘は文化大革命時の下放(知識階級の青年が半強制的に農村に移住させられ、労働に従事すること)で雲南省に赴き、その後の改革開放政策と共に 成都に戻ってきた知識青年だった。周囲には出会いを求める若い男女が多数いたが、出会いの場がなかった。そこで左長錘はダンスパーティを開催することを思 いつく。
それ自身は、日本の大学で軟派な学生が開催する“ダンパ”と変わるところはない。しかし、1983年当時の成都ではあちこちの役所に許可を得なければ開催できなかったのである。彼は、家の中で無許可のダンスパーティを開催するようになった。
1983年夏、「二王銃撃連続殺人事件」の引き起こした厳打キャンペーンが最高潮に達していたまさにその時、左長錘のヤミダンスパーティは摘発された。
警察で、左の受けた仕打ちは、単なるヤミダンスパーティ開催の代償としては重すぎるものだった。
三日三晩の厳重な取り調べのあと、私たちは『重罪ごろつき輪姦集団』と認定されました。私の指の関節を見てください。みんな変形しているでしょう。これは箸ばさみの刑です。『審妻』という四川の伝統劇に出てくるのがこの刑です。だれがこの刑に耐えられるでしょうか?
そのうえ、拳骨で殴られ、足で蹴られ、唐辛子入りの水を口に流し込まれました。さらに憎たらしいのは、警察が疲れると、投獄されていた労働改造犯を呼ん できたことです(松浦注:著者の注釈によると、官憲は服役者に拷問を行わせることがあるとのこと)。私の生殖器には今でも傷が残っています。タバコの火を 押し当てられたものです。無理やりこすって硬くさせ、亀頭を焼かれたのです。(本書 p.212)
彼には迅速に、死刑の判決が下された。
私は半年以上も手錠をかけられ、わきの下には傷ができ、炎症を起こし、そこが腐って膿が流れ出ました。しかしなにか書ける機会があれば、手錠をか けられた手で、背中の後ろで冤罪を訴える文書を書きました。(中略)辛抱し続けて、1983年の末、私と王翼(ダンパの共催者)の判決が変更されました。 私は無期で、彼は20年になりました。(本書 p.213)
あまりの仕打ちに耐えかねた彼は、模倣犯を装い、看守の信頼を得て、1986年1月に王翼と共に脱獄する。しかし官憲に負われて2人は川に飛び込 み、王翼は水死し、左長錘は捕縛された。彼は重罪犯専用の牢屋に収監される。それは、地下10mに岩をくりぬいて作られた、小さな洞窟だった。
私はこの中にまるまる4年も閉じこめられました。食事も排泄も睡眠もここでした。お日様を見ることなく、長さ2メートル、幅1メートルの洞窟から 出ることはありませんでした。立つこともできず、腰を伸ばすことさえ無理でした。私にとって唯一の運動場は石のベッドで、腕立て伏せをし、あお向けに寝た り、起きあがって座ったり、屈伸をしたりしました。(中略)たとえ一食に二両(200グラム)の飯しか食べられなくとも、天と地がひっくり返ろうとも、目 がチカチカしようとも、運動は毎日の必修課題でした。(本書 pp.219~220)
ひどい環境で彼は体を壊した。中国の制度では、病気になった犯罪者は保証人を立てれば仮出獄できる。無期の刑を受けた左長錘はこの制度を使って、辛くも俗世間に生還できたのだった。
左の体験は1980年代のことだが、厳打というスローガンは、1980年代から90年代にかけて折に触れて復活し、使われた。21世紀に入ってか らも中国政府は厳打キャンペーンを展開しており、2002年にはアムネスティ・インターナショナルが、中国政府に対して厳打キャンペーンによる処刑をこれ 以上増やさないようにという要請を出している。
声を上げて汚職を告発したら警官隊が突撃してきた
中国ではさまざまなトラブルがあった場合、より上級の行政組織に訴え出るのが一般的だ。これを「上訪」という。
著者が左長錘に会ったのは、成都の「“上訪”者用簡易旅館」だった。このことから、我々は四川省の省都である成都に、上訪の者専用の旅館がビジネスとして成立するほど、上訪者が多いことを知ることができる。
著者は本書で、そんな上訪者の一人にもインタビューを行っている。2002年4月30日に、著者は四川省蓬安県・中尉村の農民、謝民(シェー・ミ ン)に話を聞いている。彼は、地元の汚職を告発し、権力から意趣返しを受けて濡れ衣を着せられた知人、闕定明の嫌疑を晴らすべく、成都を訪れていた。イン タビューの場には闕定明本人がいるはずだったが、著者曰く「突然また逃げてしまった」。
闕定明には、なにか逃げねばならない理由があったのだろうと想像させるところから、インタビューは始まる。
謝民は、いきなり「おらたちは何十名の新聞記者からインタビューを受けただ。自分から進んで中尉村に取材に来た記者さえいるだ。みんな、ありのま まに実情を伝えると言っていたけれど、まだナシのつぶてだ」とマスメディアへの怒りをぶつける。我々はこのことから、中国で自由な報道を希求するジャーナ リズムが育ちつつあることと、ジャーナリズムへの抑圧が存在するらしいと知ることができる。謝民は「中央に訴えたって、農民を抑さえ込んで搾りとって貪る 役人たちは、今でも現役バリバリだ。権力を笠にいばりちらし、民百姓を押さえつけてるだ。裁判ってやつは、時間が長引けば長引くほど、やつらに有利になっ てる。」(本書 p.328)と嘆く。
続けて彼は、自分の村で何が起こったかを語る。
謝民: (前略)紀元1998年4月14日の午前、空はスカッと晴れわたっていた。ところが、そんな空の下で、なんと百名あまりの完 全武装の公安警察と武装警官隊がパトカーに乗り込み、おらたちの長梁郡に突撃してきただ。道をぜんぶ封鎖し、周囲を水に囲まれた中尉村をはさみ撃ちにした だ。こいつら、盗賊のような武装警官隊の総指揮は蓬安県の『父母の官』という孫明君県長だった。
老威 :君たちは普通の農民に過ぎないのに、どうして県長の逆鱗に触れたんだい。
謝民 :“上訪”したり、帳簿の検査をしたんで報復されただ。(本書 p.329)
中国の地方行政は、まず省があり、その下に県がある。県長は、日本で言えば市長とか町長といったところだ。つまり、市長が自ら警察の指揮を執って、自分に逆らった村に突撃をかけてきたわけだ。
中尉村の村民が、帳簿の検査に至った理由は県に支払う人頭税にあった。中国では、農村部の住民に人頭税、つまり人一人あたり定額の税金が課せられる。1996年、人頭税が年間60元からいきなり170元に引き上げられた。
著者はこの急な税の引き上げを、「上に政策あれば下に対策あり」と読み解く。1997年、中央政府が農民に掛かる税負担の上限を定めた。中央政府 の政策は、まず共産党内に知らされてから一般に知らされる。つまり、中央政府から共産党のラインで新しい政策を知った官吏が、その政策が公布される前に駆 け込み的に税の値上げを行ったのである。
これに反発した中尉村の闕定明らは、法に従って県の税収の帳簿の公開を要求した。法の下の平等を求め、“上訪”を繰り返し、県と交渉を重ねた。帳 簿の公開を渋る官僚も、渋々公開に応じざるを得なくなった。帳簿の公開が始まった途端、さまざまな問題が発覚した。帳簿に記された数字には、県長など官吏 による巨額の汚職の痕跡が歴然と残っていたのだ。
その途端、帳簿の公開が強制的に停止され、中尉村に警官隊が突撃してきたのである。
謝民 :(前略)警官隊は二手に分かれ、一隊は郷の映画館を包囲し、だまされて連れてこられた村民代表の闕定明、呂長君、謝自為を殴り倒し、両手を後ろ手に縛り、十数丁の自動小銃と拳銃を頭に向けながら、ひとしきり殴る蹴るの暴行をくり返した。
さらに、三人は後ろ手に手錠をかけられて自動車道路に引き立てられた。その場に居た数十人の農民は、肝をつぶして、あちこち逃げ回りながら、叫んだ。
『捕まえられるぞ!共産党に捕まえられるぞ!』
蘭副書記が威嚇射撃を命令し、吠えた。
『本日、秘密指令により、公務執行妨害を犯す者は、この場で処刑する。やれば、やるだけ殺すぞ、命令を聞かねえ者がいたら、まず殺し、その後で報告だ!』(本書 pp.333~334)。
かつて毛沢東の指揮する共産党は、農民の支持を得ることにより国民党との間の内戦を勝ち抜いた。農民の「共産党に捕まえられるぞ!」という言葉から、すでに地方の共産党組織がかつてのような信頼を失っていることが分かる。
警官隊は、パトカーで田畑に突っ込んで農作物を踏みつぶし、各戸を蹴破って誰彼なく暴行を加えた。
闕定明らは、さんざんな拷問を受けた後で、強制的に罪を認める供述書に署名させられた。1カ月後、闕定明以外の者は、保証人を立てることで釈放されたが、釈放には以下の条件が付いていた。
一、外部に事件の内容をしゃべらない
二、親戚や友人と付き合わない
三、上訴しない」
これらを破ると再逮捕、罪は一段上に引き上げられると脅された。
闕定明は、「衆をなして社会秩序を攪乱した罪」で起訴された。裁判は揉めた。怒った農民らが裁判所に詰めかけ、包囲したからだ。闕定明の弁護人は法に従い無罪を主張し、検察を追いつめた。しかし無駄だった。
謝民: (前略)午後三時過ぎになり、裁判官はあらかじめ用意したお役所式の決まり文句で宣告しただ。『闕定明に懲役4年の刑を言い渡す』
老威: 理由は何ですか?
謝民: 前にも言ったとおり、1998年2月20日に帳簿を検査したからさ。(本書 p.338)
とにもかくにも裁判が機能し、農民のために立ち上がる弁護士も存在し、法の下の平等を実現しようと努力していることが分かる。と、同時に、少なくとも1998年の段階で四川省の田舎では法律よりも地方権力者の都合が優先されていたということも。
成都に上訪に来た謝民は、怒りを著者にぶつける。
この道のりは、どんなに長くても、最後まで歩きぬいてやるだ。最後は“盲流”(家を亡くして漂泊する人々のこと)か乞食になってもいいだ。家と土 地を失っても、農民にはこれ以上奪われるものなんてありゃしねえ。投獄するなり、ぶち殺すなり、好きなようにすりゃいいだ。(本書 p.339)
発禁処分が証明する本書の信頼性
こうやって紹介していくと、本当にきりがない。2段組・全404ページというぶ厚い本書には、このような事例がぎっしりと詰まっている。
おそらく、本書を読んだ人の感想は、その人が中国に好意を持っているか、危惧(きぐ)を抱いているかで分かれるだろう。
中国に好意を持っているならば、「本書に収められた事例は、発展を遂げつつある中国のごく一部分であり、そればかりを拡大して中国という国を判断 するのは不公正だ」と感じるはずだ。一方、中国に危機感や恐怖感を感じている人は「やはり中国は人権無視の混沌(こんとん)が渦巻いている。こんな国が世 界的な大国として振る舞いだしたら大変なことになる」と思うのではないだろうか。
著者は、インタビュー相手を安心させ、本音を引き出すためだろう、本書に収められたインタビューを、メモも録音もなしに行ったとしている。そのこ とから、疑いを抱く人もいるだろう。「果たしてこれらのインタビューは真実か。著者によるねつ造はまぎれ込んでいないか。ねつ造と言わないまでも、著者の 無意識が記憶を変形して、悲惨さを誇張する結果となっていないか」と。
本書の底本は、中国において発禁処分を受けている。わたしはこの事実が、本書の信憑性(しんぴょうせい)に一定の保証を与えていると考える。
中国政府は、出版物を発禁処分にすることにより、情報の流通を阻止することができる。その一方で、「出版の自由を制限する国」という評価を海外から受けるというリスクを抱えることになる。
本書の内容が、中国の実態に即したものではない場合、発禁の理由は「虚偽を世間に流布した」というものになる。しかし、現在の中国にはある程度の 出版の自由が確保されており、インターネットもそれなりに普及している。「虚偽の出版」に対しては、政府が動かなくとも民間からの反発が起きることが予想 される。すると、発禁処分のメリットに対するリスクが相対的に大きくなる。
一方、本書の内容が、中国の実態を暴露したものであるとするなら、「上に政策あれば下に対策あり」とばかりに、民間はむしろ本書の流通に加担する だろう。その内容が国内外に知られたくないものであればあるほど、中国政府にとって発禁処分のメリットは大きくなり、リスクは受容範囲内ということにな る。
中国国内で、本書の海賊版が複数流通しているということも、本書の信頼性を別の方向から裏打ちしているといっていいだろう。海賊版は、第三者が純粋に利益のために出版する。「売れない」と判断された本の海賊版を出す者はいない。
つまり、中国の人々は本書を読みたがっているのだ。海賊版の入手という危険を冒してまで、虚偽を読みたがる者はいない。明らかに本書は、人民日報や中央電視台といった官制メディアが伝えない、しかし、中国の人々が知りたいと思っている事実をまとめているのである。
メモ・録音なしの取材も、わたしの過去の経験から言えば、インタビュー直後に原稿を起こせば、100%記憶に頼ったとしても、まず間違いのない内 容の原稿をまとめることができる。「メモ・録音なし」ということだけをもって、「著者の無意識が記憶を変形して、悲惨さを誇張する結果となっていないか」 と非難することはできないだろう。
むしろわたしは、おそらくは散漫に話題が拡散することも多かったであろう実際のインタビューから、話し手の意志や状況が的確に伝わる、かくも力強いインタビューにまとめたことに素直に賛辞を送りたい。著者の筆力は大したものである。
中国の庶民生活のすべてが詰まっている
とはいえ、本書を「中国貧困層・悲惨な生活実態のまとめ」とだけ読んでしまっては本書の価値を見過ごすことになるだろう。
本書で、我々日本人にとって最も興味深いのは、インタビューの端々に表れる、普通の中国人のものの考え方、生活様式、日本では知られていない社会的状況などである。本書には中国の庶民生活のすべてが詰まっているのだ。
例えば、本書の随所に「思想改造」「思想工作」という単語が出てくる。読み進めると、それが弁舌をもって相手を説得し共産党の政策に協力するようにすることだと分かってくる。
「史記」の記す、弁舌だけで合従連衡を実現した蘇秦の故事からも分かるように、弁舌は中国において重要な社会的機能を持っている。
それが、ごく普通に「思想改造」「思想工作」と呼ばれているあたりに、中国の人々の生活に、中国共産党がいかに深く浸透していたかを実感することができる。
そこに、“上訪”農民の謝民が語る、「おれの親父はもう八十歳だ。毛主席が好きで、毛主席は少なくとも幹部が好き放題に村民から奪うようなことは させなかったと言っている。」(本書 p.339)という言葉を重ねると、中国共産党がどうやって国民党との内戦を戦い抜いたかが、おぼろに見えてくる。
あるいは、「ハトを飛ばす」という言葉。本書には、都市部で女性を誘拐して、嫁の来手がない農村部へ売り飛ばしていた男が登場する。彼は自分の仕事は「ビジネスである」と胸を張り、「『ハトを飛ばす』は大衆の怒りを買った」と言う。
栄光と悲惨さの極端なコントラスト
本書のインタビューはそのほとんどが悲惨なものだが、ただ一つ、“右派”のレッテルを張られた馮中慈(フォン・チュンツー)へのインタビューは強い意志と背筋の伸びた態度で、読者の胸を打つだろう。
文化大革命の時代、“右派”とレッテルを張られることは、即ひどい迫害を受けることを意味していた。その状況のなか、彼はかつての地主階級出身の女性に恋をする。当時、地主階級の出身者はそれだけで“右派”と呼ばれ、迫害の対象だった。
その状況下で、彼は自らの恋を貫き、その女性と結婚する。馮中慈も“右派”とされ、迫害の火の粉が降りかかるが、彼はひるまなかった。
老威: あなたは後悔したことはありませんか。
馮中慈: ない。初めは批判されることに慣れなかった。以前は私が他人を批判していたからな。でもだんだんと慣れてしまった。子供ができる と、それで、もっと慣れてしまった。貧しい者が革命を行うのは飯を食うため、服を着るため、妻や子供のためだ。私は革命を行わなくても妻や子供を手に入れ た。 (中略) もしも良心に背いて文馨(松浦注:妻の名前)を火の穴の中に突き落としていたら、私は一生後悔していただろう。たとえ大臣になったとしても心は穏やかで はなかったろう。(本書 p.191)
当たり前に生きることすら困難であった文化大革命の時代に、敢然と自分の意志を貫いて生きた人もいたのである。
中国を考える上で、このように極端な栄光と悲惨さのコントラストを避けて通ることはできない。
中国には日本の10倍以上、13億人を超える人々が住む。そのマスの中から生まれる栄光も悲惨も、日本の比ではない。
オリンピックの開会式にあったように、紙を発明したのも羅針盤を発明したのも中国人だった(開会式では出てこなかったが、火薬を発明したのも中国人だ。まとめて中国三大発明といわれる)。
旧ソ連と米国に続き、世界で3番目に有人宇宙飛行を成功させたのも中国だ。沿岸部を中心に1億人近い富裕層が生活するのも、間違いなく中国の現実である。
しかし、その一方には、本書が描き出すような想像を絶する悲惨さも存在する。その両方を見ていかなければ、中国の実際を把握することはできないだろう。中国政府が隠したがる、悲惨さの実態を記録している点で、本書の価値は非常に大きい。
同じ漢字文化圏にあるせいか、わたしたちは中国の文化や中国の人々を「理解できる」と安易に思ってしまいがちだ。しかし、実際には、中国の文化や価値観は日本とは大きく異なる。
本書を読むと、庶民レベルでの感性の違いをインタビューの端々で実感できる。ちょっとした単語、言葉のニュアンスなどから、同じ漢字を使いつつも全く異なる文化のありようを読み取ることができる。
安易に「同じ漢字を使う者」という感覚だけでは、中国への理解は深まることはない。お互いの文化の違いを直視し、知ることで初めて理解は深まる。
その意味で、本書は中国に興味がある人や対中ビジネスに携わる人のみならず、日本の将来について考えるすべての人が読むべき一冊だ。
2007年、日本の対中貿易額は対米貿易を抜いて1位となった。輸入も輸出も右肩上がりに増えている。もはや、日本の将来を考えるにあたって中国の影響を排除することはできない。中国に対する正確な理解なくして、日本の将来を見通すことはできないのである。
「ハトを飛ばす」とは、女性が嫁になるとして農村部に行き、結納金を巻き上げて逃げ帰ることだ。元締めと女性がぐるになって行う犯罪である。彼は、自分は農民をだましているわけではないと自分を正当化する。
「ハトを飛ばす」という言葉から、我々は一人っ子政策がもたらした適齢期の女性不足が、特に農村部では深刻な状況になっていることを知ることができる。
あるいは、生涯、屎尿(しにょう)のくみ取りを生業とし、老後を有料トイレの番人として過ごす老人の話。このインタビューはトイレを通じて語る中国民衆の生活史として非常に興味深い。
1970年代に入り、屎尿のくみ取りがひしゃくから電動ポンプに替わった。ところがある日、何かがくみ取りポンプに引っかかった。汚物に手を突っ込み、パイプから異物を取り出すと、それはなんと堕胎された胎児だった。
あまりのことに怒る著者に対して老人は言う。
若いの。そう言えるのは90年代からだ。それ以前の人間で、結婚証明書がなくとも公に病院で堕胎する勇気のあるヤツがいたかい? まさに道徳的な 堕落の一大スキャンダルじゃ。だから一時の過ちを犯した女の子は、みんな秘かに堕胎薬を手に入れ、だれにも知られないうちにこっそりとお腹のものを堕ろし たんだ。(中略)公衆便所が堕胎病院だったんじゃよ。」(本書 p.145)
これだけで、1970年代までの中国における堕胎のありようを知ることができる。
あるいは、1960年代を文化大革命と共に生きた元紅衛兵へのインタビューでは、毛沢東が指導した文化大革命が、末端の庶民においてはどんなもの であったかをまざまざと見せてくれる。末端レベルで紅衛兵の組織は四分五裂し、お互いにテロをかけあう無茶苦茶な状態だった。同じ家族の中でも所属する分 派が異なり、同じ家に住みながら家庭内で権力闘争が起きるという悲劇的というより喜劇的と形容すべき状態だったのである。
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