欧州連合(EU、加盟27カ国)の行政府・欧州委員会が域内企業の国際競争力を高め、移民の社会統合を促す観点から、EU市民による二つ以上の外国語の習得を目指す多言語政策を推進している。グローバル化時代を生き抜くすべとして、英語支配に対抗し、23もの公用語を抱えるEUの多様な言語状況を積極的に活用する戦略だ。しかし、移民の流入や言葉の扱いは帰属意識や民族主義と密接に絡むだけに一部加盟国にとっては頭痛の種でもある。【ブリュッセル福島良典】
◇域内5億人、175カ国の出身者、公用語23、地域・少数語60
EUは02年にスペイン・バルセロナで開いた首脳会議で「母語以外にEU域内の二つの外国語を操れるEU市民の育成」を目指す言語教育目標を掲げた。目標達成に向け、これまでにEUレベルでの外国語教育や留学・交流の事業を導入してきた。だが、実際には「EU市民の半数は母語以外の外国語を話せない」(オルバン欧州委員)状況だ。
EUは08年を異文化理解を促進するための「欧州異文化間対話年」と位置づけ、言語政策の拡充に取り組んできた。文化人と企業家がまとめた報告書に基づき、欧州委員会は今月18日、「多言語=欧州の資産と共通の取り組み」と題する政策文書を発表した。
欧州委員会の調査によると、輸出に携わるEU域内の中小企業の11%が「言葉の壁」のために収益面での影響を受けている可能性があるという。一方、政策文書は「欧州企業の強みは英語以外の言葉だ」と指摘、ブラジル、中国などの新興国での欧州企業を支援するため、関係者が成功のノウハウを共有する協議体の創設をうたう。
欧州委員会は多言語政策の推進を移民の統合促進や対外関係の強化につなげたい意向だ。政策文書は「社会に溶け込み、積極的役割を果たすためには言葉の習得は必須だ」として移民に受け入れ国の言語学習を促し、加盟国に対し移民が社会サービスを受けやすい環境作りを求めている。
だが、欧州では域外からの移民流入を規制する動きが強まっている。EU内相会議は25日、不法移民の取り締まり強化で合意した。オランダなど一部加盟国は域外移民に言語試験や能力証明を義務付けており、人権保護団体から「途上国からの移民流入制限を狙った差別措置」などとの批判を浴びている。
◇「人々の懸け橋に」--通訳と翻訳家
EUの多言語政策を黒衣として下支えしているのは欧州委員会の翻訳・通訳部門のスタッフだ。約1750人の翻訳家と約550人の通訳が書類や会議をさばく。両部門の予算はEU全体の約1%にあたる約11億ユーロ(約1700億円)で、EU市民1人当たり年約2・5ユーロに相当する。
6年前に通訳部門から翻訳部門に移ったギリシャ人のヨハニス・イコノモさんは32カ国語を操る。「ハンガリーのお年寄りが欧州委員会に寄せた陳情の手紙から、ギリシャ国民の暮らしを変えるEU法案まで、翻訳で人々の懸け橋の役割を果たせるのがうれしい」
多言語の習得を通じて知ったのは「いかに私たちが交じり合っているかという事実」だという。「例えばギリシャ語とポーランド語の『ティーカップ』の発音は似ている。自分の遺伝子にはポーランド人の祖先の記憶が刻まれているのかもしれない」と語る。
英国に併合された過去を持つアイルランドでは国民の大半が英語を話すが、政府はアイルランド語の教育に力を入れている。政府の要請でアイルランド語がEUの公用語に加わったのは昨年1月。加盟から34年かかった。
アイルランド人翻訳家のション・オ・リエンさんは「多言語を学ぶことでアイルランド人としてのアイデンティティー(帰属意識)が弱まることはなかったが、欧州人意識が強くなった。自分の中で二つの調和が取れている」と説明する。
◇「英語だけでは不十分」--多言語政策担当委員に聞く
オルバン欧州委員(多言語政策担当)は毎日新聞と会見し、「国際競争力の点からも英語だけでは不十分」と多言語政策の意義を強調した。
--欧州単一通貨ユーロは成功しています。なぜ言語は統一しないのですか。
◆幾多の紛争、戦争を体験した欧州の歴史的経緯からだ。かつての敵同士が平等な立場で交渉に臨むには相手の言葉と文化を尊重する仕組みが必要だった。加盟国民に母語で情報を提供するという民主主義の問題でもある。小国の文化も尊重され、誇りを持つことができる。米国と異なり、私たちは「単一の文化・言語」を推進するつもりはない。
--英語をEUの共通語にすべきだと考える言語学者もいます。
◆国際的な意思疎通のため英語は一層、必要になっているが、企業や国家の競争力の点から見ても、英語だけでは不十分だ。日本、ブラジル、ロシア、中国などの言語の使い手は欧州には少なく、中小企業は言語能力を競争力につなげるノウハウを持っていないことが多い。今回、初めて域外言語の学習を促進する計画を始める。
EU域内では人の移動は自由だが、言葉が障害になっている。他の加盟国で暮らし、働いている人の割合はわずか2%だ。EUには失業率が高い国も、労働力不足の国もある。労働者が多言語能力を身につければ就労機会が増え、労働力の適正配分にもつながる。
--移民を社会に統合する効果は。
◆EU人口の約4%はアフリカ、中南米などの域外出身者だ。EUが豊かさを維持するには今よりも多数の移民が必要になる。移民が溶け込むには受け入れ国の言葉を話せることが前提条件だ。
--欧州で地域主義、民族主義が高まっているように見えます。
◆EUは地域言語、少数言語を含め言語の多様性を推奨している。だが、人々が言葉を分離主義、民族主義、地域主義の道具に使うのには反対だ。
==============
■ことば
◇欧州の言語状況
EUの東方拡大に伴い公用語の数が増加。域内には23の公用語のほかに約60の地域言語・少数言語を話す人々がいる。さらに、アフリカ、中東などから流入する移民が持ち込む言葉が加わり、多言語状況に拍車をかけている。EU域内には少なくとも175カ国の出身者が暮らしていると推定されている。また、EU加盟国民約5億人のうち約1000万人が他の加盟国で働いている。
毎日新聞 2008年9月27日 東京朝刊
0 件のコメント:
コメントを投稿