2009-01-05

【日本よ】石原慎太郎 経済性なる欲望からの解放

:::引用:::
今年の年頭ほど、この一年がいかなることになるかを不安の内に想うことはなさそうだ。それぞれの問題についてそれぞれの人々の思いは異なろうが、合わせて考えれば我々はいわば三重苦の時代にさしかかってしまったといえそうだ。

 一つは、実は刻一刻せまりつつある世界の、つまりこの地球の破滅にも繋がりかねない気象の温暖化による環境破壊。

 二つは突然到来した世界全体の経済危機。

 三つはいつ爆発蔓延(まんえん)してもおかしくない強毒性のH5型インフルエンザの恐怖。

 これらの危機要因は、実はすべて人間たちの限りを知らぬ欲望が左右するものに他ならない。

  第三要因の新型インフルエンザは、人間の過去の歴史の中にすでに登録されている何百年かの周期で到来する疫病の大流行のパターンの繰り返しともいわれてい るが、しかしなおこれを現代の文明を駆使していかに未然に防ぐかの問題には、人間の物欲、いい換えれば「経済性」なるものが大きくからんでいる。

  いくつかの先進国がすでに国民総数にいき渡るプレ・パンデミックワクチンを備えているのに、この日本の対策はひどく遅れている。側聞すれば政府筋は最近、 新しい疫病は水際で防ぐことが出来るとしていた見解をようやく改め、国内での蔓延対策を考え出したそうだが、地球が時間的空間的にかくも狭小となった現 代、多大な数の不法入国者に悩まされている現況でそうした当初の想定そのものが間違っていた。つまりそれは結局予算の問題に帰着する。

 かつてホンコンで鶏の発病死を見て、躊躇(ちゅうちょ)の末何十万羽の鶏を敢えて焼き殺しはしたが政治体制の変わった今、かの国において果たしてそれが可能かどうか。

  第一の環境破壊はまぎれもなく人間たちの物欲が、環境破壊の防止も経済とのトレイドオフとして可能だという論をかざしての末に推し進められてきた。かつて 私が主務大臣として担当苦悩した水俣の水銀汚染はそれを象徴する出来事だった。しかし今日の温暖化による異常気象はその比ではありえない。まさに我々の存 在の舞台である地球そのものが失われようとしているのだ。

 第二の世界経済の危機は、『アメリカンドリーム』なるものを掲げて突き進んで来たアメリカ人の強欲さがもたらしたものだ。年間の報酬が数十億というリーダーたちが、今さらその年俸をわずか一ドルとしたとする殊勝そうな擬態もそれを覆いつくす訳にいきはしまい。

  株主を絶対化しているアメリカが主唱する市場原理主義なるものは、株主への忠誠が投資、投機を自ずと抑制するはずだという原理など人間の強欲さの前には通 用しないという現実を前に、一時はカリスマともされていたグリーンスパンなる人物が今頃慚愧(ざんき)してみせてももう誰が救われるものでもない。

 他の惑星の他の生物がいかなる衝動で生を営みいかなる文明を育てているかは知らぬが、この地球に存在する文明をはぐくみ進めてきたのは、要するに人間たちの飽くこともない、多様な欲望だった。

  人間の作り出したこの地球の文明を推し進めて来たのは悪辣(あくらつ)な植民地主義であり、戦争であり、それにも伴ったさまざまな技術の開発進展であり、 その成果がさらに欲望を増幅させていった。そしてそうした欲望の抑制を説きはしたもろもろの宗教もまた、経済という欲望の果実に潤い肥大し堕落してしまっ た。

 敢えてまた引用するが、四半世紀ほど前に聞いた講演の中で、あのブラックホールの発見者で全身麻痺の業病に犯されていたホーキング が、「地球のような文明を抱えた惑星は自然の循環が狂ってきて極めて不安定となり、宇宙時間からすれば瞬間的に滅亡消滅する。それは地球時間にしておよそ 百年間だろう」といった予言を今更に思いおこさずにはいられない。

 今日世界を覆っている国と国、民族と民族の間の格差は、情報に乗ってさらなる欲望を生み出さざるを得まい。

  昨年行われた先進国サミットのおりに、中国、インドといった発展途上国の代表が、世界を壊滅しかねぬ異常気象のつけを、我々がそれをもたらした先進国と同 じノルマで払わせられるのは承服出来ないと唱えたのは一応通った理屈であって、しかしそういわれて、かつての彼等を植民地化し収奪しつくした先進国がそれ を悔いて従うなどということはあり得まい。結局は責任のなすり合いのにらみ合いが続くだけだ。

 加えてのこの経済危機は将来一体どうやって克服されるのだろうか。多国間での協力でとはいうが、その協力の中ですら当然まず我が身の利益は優先されよう。

 救済を訴えているアメリカのビッグスリーに、他の同種企業に比べて格段に贅沢な労働条件の合理化を呑まずして救われる者としての資格もあるまいが、ことほどさようにいかなる国も組織も危機の中においてすら己の欲望の保全を試みつづける。

 かつてローズベルト時代、アメリカを中心にした経済恐慌が何によって救われたかといえば、結局は第二次世界大戦の勃発によってでしかありはしなかった。

 ならば果たして世界は最大の消費である大規模な戦争を始め得るのだろうか。人間の抱くきりのない欲望は、あのギリシャ神話における悲劇の一族の主祖タンタロスのように目先目先の欲望を満たすべく、結果は我が身の肉を食いつくして終わるのだろうか。

 昔からよく腹八分目といわれはしたが、この現代の地球に住む人間たちがそのよろずの欲望をせめて八分目ほどにも抑制できたならばとは思うが、それを我々に強いる力を持つ者などいはしまい。失われつつある自然の前に、神たちはとうに死んでしまったようだ。

  しかしなお、我々は『経済性』なる価値の呪縛から逃れて、あのマルチン・ルッターが説き、東欧の詩人のゲオルグが歌ったように、『たとえ明日地球が滅びよ うと、君は今日林檎の木を植える』という志だけは持ち直さないと、我々はこれからやってくる人間たちへの責任を果たし得まい。


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