ブッシュ大統領が述べているように、「自由に抵抗することはできる。自由を遅らせることもできる。しかし、自由を否定することはできない」。長い 目で見れば、ハベル氏やマンデラ氏といった先達がそうであったように、自らの尊厳と権利のために犠牲を払う市民が勝利を収める時が来る。こうした偉大な人 々と同様に、今日の人権活動家の多くは、国連世界人権宣言にうたわれている自由を強く要求したというだけの理由で、自国の政府によって糾弾され、迫害さ れ、反逆者としてそしられ、抑圧の標的とされている。このような、待っているだけでなく行動する愛国者は、同胞を鼓舞する存在であり、彼らが設定した高い 基準は、自由と尊厳と権利のために平和的に活動する世界各地の人々に希望を与え続けている。
自由と尊厳と権利は、すべての人間に基本的に授けられているものであり、それを保護し維持する最も確実な手段は、効果的、合法的、かつ民主的な統 治である。確かに、いかなる国家にとっても、民主主義への道はなだらかでもなければ真っすぐでもない。その途中で、つまずいたり後退することは避けられな い。最高の条件が整っていても、民主主義の理想を実際の民主主義制度として実現することは容易ではない。民主主義への移行は人々に不安をもたらすこともあ る。また、社会不安、ひどい貧困、疾病のまん延が原因で、こうした移行がうまく前に進まないこともある。汚職のはびこる政府あるいは十分な資源を持たない 政府は、国民の大きな期待に応えることができず、国民はより良い生活を実現するという約束が信じられなくなることもある。改革への熱意の足りない指導者 は、再び独裁主義に立ち戻るかもしれないし、法の支配を迂回(うかい)して悲惨な結果をもたらすかもしれない。また、国民の権利の保証に向けた第1歩すら 踏み出していない政府もある。
以下の国別人権報告書には、こうした事例をはじめ、人権に関する数々の課題がすべて記録されている。それでも、この報告書は、永久に圧制下に置か れる運命にあるような場所は世界中どこにもない、との確信をもって取りまとめ、執筆されたものである。変化には時間がかかるかもしれないが、変化は必ず実 現する。世界中の人々が人権という普遍的な価値を支持する限り、常に希望はある。そしてわれわれは、こうした勇気ある人々を支援することが世界中の責任あ る政府の義務である、と信じて続けている。
以上の精神に基づき、私はここに国務省の「2007年国別人権報告書」を米国連邦議会に提出する。
国務長官
コンドリーザ・ライス
序文
世界人権宣言に表されている人権と基本的な自由の尊重は、ブッシュ大統領が述べたように、「世界の自由と正義と平和の基盤」である。今日、世界中 のいたるところで、人々は、しばしば直面する大きな困難や危険をものともせず、尊厳を持って生き、自らの良心に従って恐れることなく意見を述べ、自らの統 治者を選んで指導者に説明責任を負わせ、法の下で平等な裁判を受ける基本的権利を確保するために努力している。
民主主義は、そうした権利と基本的な自由を確保することのできる政治形態であるとの考え方が、ますます広がっている。いかなる政治形態にも欠陥は ある。民主主義とは、「人間は自らの未来を構築する生来の権利を有するが、人間は欠陥のある生き物であるため、誤りを正す機能が備わっていなければならな い」という原則に基づく、人民の、人民による、人民のための政治制度である。わが国の国民は、国家の創設以来、どの世代も、わが国の民主主義の実践が大切 な原則に近づくように努力してきたという誇るべき歴史を持つ一方で、新しい時代の不正や困難に今も立ち向かおうとしている。
この報告書の発行に当たり、米国国務省は引き続き、米国の人権実績に対する国内外からの批判に留意している。米国政府は、国際的なテロの脅威から 自国を守るために取ってきた措置を含め、わが国の活動に対する懸念に今後も耳を傾け、率直に答えていく。米国の法律、政策、および活動は、近年大きく進化 しており、われわれは今後も、人権と基本的な自由を尊重するという長年にわたる約束を果たしながら、罪のない国民を攻撃から守る努力を続けていく。こうし た努力の一環として、米国は、米国が締約国となっている各種の人権条約に基づく義務に従い、各国際機関に報告書を提出している。
われわれは、人権に関する自らの約束をすべて重く受け止めており、そうした約束を守るために誠実に努力する中で、市民社会と独立系メディアの果た す重要な役割を高く評価している。われわれは、米国の人権実績に関し国際社会が見解を表明することを、わが国への内政干渉とは見なさないが、諸外国の政府 もまた、各国の実績に関する意見の表明を内政干渉と見なすべきではない。事実、世界人権宣言の下では、「これらの権利と自由との尊重を促進すること、なら びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と順守とを国内的および国際的な漸進的措置によって確保することが、社会のあらゆる個人および機関」の権利であり義務 である、とされている。
連邦議会により義務付けられた以下の報告書は、2007年における世界各国の人権に関する国際的な約束の実施状況を述べたものである。この報告書 は、米国政府の政策決定のために情報を提供するとともに、諸外国の政府、政府間機関、非政府機関、個人、およびメディアのための参考文書にもなる。各国の 報告書は、それぞれの状況を明確に説明している。しかしながら、世界各地における人権と民主主義の原則の前進に関するこれらの報告書からは、いくつかの分 野横断的な所見も得られる。特定の各国の事例は、具体的であるが、網羅的なものではない。
2007年には、人権と民主主義が大きく後退した国が大きなニュースになった。大きな困難がまだ残っていたにもかかわらず著しい前進を遂げた国も あったが、大多数の国々は、段階的な進展を見る国もあれば、後退を余儀なくされる国もあり、悪戦苦闘している。その具体的な例を以下に挙げる。
モーリタニアでは4月に、国際社会によっておおむね自由で公正と見なされた選挙で選ばれた大統領が就任し、独立後約50年で初めて、民主主義への 移行が成功した。2006年11月の議会選挙に加え、今回の大統領選挙によって、広い範囲で政治参加が見られ、その範囲をますます広げるような寛容な環境 がつくられた。新政府の誕生によって人権問題、特に奴隷制の名残、黒人のムーア人およびアフリカ系モーリタニア人の不平等な政治的・社会的地位、そしてセ ネガルに住むモーリタニア人難民の本国帰還といった問題への取り組みが強化された。
ガーナは、2007年3月に独立50周年を祝った。過去15年間に、ガーナでは、自由で公正な民主的選挙が連続して実施され、活気ある市民社会が 出現し、政府の各部門を責任持って管理することにより持続可能な改革を目指す取り組みが行われた。最近までアフリカ連合(AU)議長を務めたクフォー大統 領の指導の下で、ガーナは他のアフリカ諸国での民主主義と安定の推進においても積極的な役割を果たしてきた。ガーナでは、憲法により、大統領の3選が禁じ られている。
モロッコでは、より広範な改革プロセスの一環として、9月の議会選挙が透明性を持って実施され、その後、人権諮問委員会の影響力が増大した。選挙 監視団によると、選挙運動期間中にいくつか問題が見られ、票の買収やその他の選挙操作が行われたものの、政府は48時間以内に選挙区ごとの投票率や一般投 票結果を公表し、すべての政党が最終結果を正確なものとして受け入れた。人権擁護の文化を培うという総体的な公約に付随して、NGOによる接見も含めた刑 務所改革が行われた。しかしながら、報道の自由の制限や、モロッコの統治下にある西サハラで報告されている虐待などの人権問題が引き続き見られた。
ハイチでは2006年に、新大統領と議会の選出を含め民主的選挙が3回行われた。しかしながら、2007年には、実施が義務付けられていた上院選挙は行われなかった。
ネパールの暫定政府は、2006年11月の和平協定締結によって10年に及ぶ反政府運動が終結した後、2度にわたって制憲議会選挙を延期した。治 安部隊による人権侵害はかなり減少したものの、マオイスト(共産党毛沢東派)およびマオイストの傘下にあるヤング・コミュニスト・リーグ、ならびにその他 の小規模な武装集団(多くは民族武装集団)のメンバーが数々の重大な人権侵害を犯した。武装集団はまた、一般市民、政府関係者、特定の民族グループのメン バー、ほかの武装集団、あるいはマオイストを攻撃した。警察は、政治的な支援を得られないため介入を嫌い、特にマオイストに対しては介入をためらうことが 多かった。政府は9月に、国家人権委員会(NHRC)の委員を任命するという前向きな措置を取ったが、2006年にNHRCおよび国連が特定したおよそ 700人の失跡者の所在については発表しなかった。人権を侵害した者の刑事免責、メディアに対する脅迫、恣意(しい)的な逮捕、および審理前の長期にわた る勾留が深刻な問題となった。
グルジアでは、人権と民主主義の前進は一様でなかった。2007年のグルジア政府の人権実績は、一部の分野では改善された。政府は、裁判官の養成 のために司法高等学校を設立し、議会は、裁判官と当事者が法廷外で訴訟について連絡を取ることを禁止する法律を制定するとともに、裁判官のための倫理規定 を採択した。しかしながら、秋に発生した政治危機では、警察とデモ隊が衝突し、政府はデモを解散させるために過剰な武力行使を行い、最も視聴率の高いテレ ビ局とその他2局の業務を一時的に停止させ、一時的な非常事態を宣言したため、表現・報道・集会の自由が損なわれた。この危機の結果、サーカシビリ大統領 は辞任して、早期の大統領選挙を要求した。
キルギスでは、2005年の大統領選直後に、民主主義および人権実績がかなり改善されたが、2006年には、政府が平和的集会を制限しようとし、 集会の主催者を勾留し、憲法・選挙法・政府を性急に変更した。2007年も2006年と同様の状況が続いた。政府は、全般的に表現の自由を尊重したが、独 立系メディアへの圧力が増加した。欧州安全保障協力機構(OSCE)およびその他の西側の選挙監視団や国内の独立監視組織は、10月の憲法案をめぐる国民 投票で、広範囲に及ぶ深刻な違反があったことを報告した。また、12月に全国で行われた議会選挙では、国際的な基準を満たすことができなかった。
ロシアでは、行政府への権力の集中、迎合的な国家会議、選択的な法の執行と法執行面での汚職、煩雑なNGO登録要件、一部NGOに対する嫌がら せ、メディアに対する制約が原因で、国民に対する政府の説明責任が引き続き損なわれることとなった。政府は、報道機関を直接所有したり、主な報道機関の所 有者に影響を及ぼしたり、ジャーナリストに嫌がらせや脅迫を行って自己検閲を実施させることによって、引き続きロシアにおける報道の自由を弱体化させた。 複数のジャーナリスト殺害事件が未解決の状態にあった。過激主義を取り締まる法律が、表現と結社の自由を制限するために使われた。政府は、野党やその候補 者が政治プロセスに参加する能力を厳しく制限した。12月に行われた国家会議選挙では、選挙戦期間中も選挙当日も、行政資源の乱用、プーチン大統領の支持 する統一ロシア党に肩入れする偏向報道、野党に対する嫌がらせ、選挙運動の登録・実施における野党に対する機会不均等、および不正投票などの問題が目立っ た。国際監視団は、この選挙は公正ではなく、民主的な選挙の基準を満たさなかった、との結論に達した。チェチェン共和国およびその周辺における人権実績は 依然としてあまり芳しくなく、イングーシ共和国においては人権実績がかなり悪化し、治安部隊による暴力と人権侵害が増加した。
パキスタンでは、ムシャラフ大統領が、民主主義への移行を約束したにもかかわらず、2007年の大半を通じて人権状況は悪化した。ムシャラフ大統 領が3月に最高裁長官を停職処分にしたことに対し、弁護士や市民団体が独立した司法制度を支持する抗議活動を広範に行った結果、大勢の人々が勾留されるこ ととなった。これをきっかけに弁護士のストライキが起こり、長期化した。11月、ムシャラフ大統領は、彼に大統領再選の資格があるかどうかを決める最高裁 の判決が出る前に、非常事態を宣言した。その非常事態のさなか、ムシャラフ大統領は憲法を停止し、最高裁長官をはじめとする最高裁判事8人、および各地の 高等裁判所判事40人を解任・逮捕した。また、パキスタン当局は、非常時の規定にのっとり、野党の職員、人権活動家、弁護士、判事ら約6000人を逮捕し た。2007年末時点で、停職中の判事11人、弁護士3人がまだ自宅監禁中であった。また、報道機関が活動を続けるには、政府に対する批判を禁止する行動 規範に署名しなければならなかった。好ましい出来事としては、ムシャラフ大統領が11月末に陸軍参謀長を辞任し、民間人として改めて大統領就任の宣誓を行 い、12月には非常事態を解除した。主要野党2党の指導者が海外から帰国し、議会選挙の日程が決められた。その後、ベナジル・ブット暗殺により、選挙は延 期された。
バングラデシュ政府の人権実績は悪化したが、その原因の一端は、非常事態宣言と選挙の延期にあった。政府が1月に公布し、年間を通じて有効であっ た2007年非常事態権限令は、報道の自由、結社の自由、および保釈の権利など、多くの権利や基本的な自由を停止した。政府が率先して行った汚職防止運動 は、国民の支持を得る一方で、正当な法の手続きに関する懸念を生じさせた。2007年の大半を通じて、政府は政治活動を禁止したが、この政策の実施には一 貫性がなかった。治安部隊が裁判なしで処刑を行う件数は大きく減少したが、治安部隊は、勾留者の死亡、恣意的な逮捕、ジャーナリストに対する嫌がらせな ど、深刻な人権侵害を犯したとして非難された。
スリランカでは、武力衝突による暴力の連鎖が起き、双方の当事者が原因でその連鎖が悪化する中で、引き続き政府による人権軽視が進んだ。信頼でき る報告によると、政府職員による違法な殺害、何者かによる暗殺、政府とつながりのある準軍事組織による政治的動機に基づく殺害および少年兵の募集、失跡、 恣意的な逮捕や勾留、ならびにその他の多くの深刻な人権侵害行為が行われた。政府の統治下にあるジャフナ半島では、裁判なしの処刑が急増した。軍隊、警 察、および親政府系準軍事組織が民間人に対する武力攻撃に参加し、拷問、誘拐、人質行為、および恐喝を行ったが処罰されなかったという事例が多数報告され た。スリランカ北部の広範な地域で支配力を維持する指定テロ組織タミル・イーラム解放の虎が、民間人に対する攻撃ならびに拷問、恣意的な逮捕や勾留、およ びその他の人権侵害行為を続けた。
2007年には、国内あるいは国境を越えた紛争から生じた治安の悪化によって、人権および民主主義の分野で前進が脅かされたり、挫折させられるという状態が続いた。しかし一方で、治安の改善によって、これらの分野でより前進を促す環境が整った。
コロンビア政府による人権および治安状況改善のための措置は、明らかな成果をもたらした。「正義と平和法」は、3000件を超える犯罪の解明に貢 献し、その結果、大量の墓が発掘され、1000体を超える遺体の身元確認が進んだ。最高裁と検事総長が、政治家と準軍事組織とのつながりを捜査した結果、 選挙で選ばれた指導者が多数関与していたが明らかになり、そのうち数人が2007年末時点で獄中にあった。防衛省の指示により、およそ600件の人権訴訟 が軍事法廷から民間法廷に移された。
イラクでは、憲法と法律で、人権の自由な行使の枠組みが規定されており、多くの市民が、そうした権利を保護するための市民社会制度と治安制度の構 築に資する活動に貢献した。それでも、宗派間、民族間、および過激派の暴力に加え、政府が法の支配を維持する能力に欠けていることから、広範かつ深刻な人 権侵害が行われ、大量の難民および国内避難民が発生することとなった。2007年前半の6カ月間は、イラク戦争において最も多くの死者を出したが、後半 は、新戦略が地歩を固めるとともに民間人の死者数が急激に減少した。一部のシーア派民兵による停戦が確かなものとなり、地元の市民自警団が過激派に立ち向 かう中、新たな軍事努力に助けられて、暴力が減少した。2007年には、政府機関がひどく疲弊しており、広範な人権侵害や、イラクの聖戦アルカイダ組織の テロリストおよび過激派グループによる攻撃から生まれる問題にうまく対処することが困難だった。テロリスト集団による民間人および治安部隊に対する攻撃が 続いた。
アフガニスタンは、2001年のタリバン政権崩壊以降、人権の分野で大きな前進を見せているが、その実績は依然として芳しくなかった。主な要因 は、破壊的な反政府活動、政府機関や伝統的な機関の脆弱(ぜいじゃく)性、汚職、麻薬取引、そして同国の25年間に及ぶ紛争であった。地方の中心地では政 府が権限を強めたが、タリバンまたは政府の権限外で活動する勢力が一部地域を支配した。2007年には、6500人以上が、自爆テロ、道路沿いに仕掛けら れた爆弾、および戦闘に伴う暴力など、反政府活動の結果死亡した。これは前年に比べ大幅な増加であった。裁判なしの処刑、恣意的な逮捕や勾留、公務員の刑 事免責、拷問など、国家治安部隊による人権侵害行為が続いた。しかしながら、政府は、軍隊と警察部隊の質を向上させるよう努めた。国内外の監視員による警 察に対する監督の強化が人権侵害の防止に貢献し、人権に関する研修が警官および兵士の通常の訓練に取り入れられた。
レバノンの民主主義および人権活動に対する抵抗は、組織的な暴力と暗殺、および外国から支援を受けて政府の機能を阻止しようとする活動という形で さらに続いた。2007年には、過激派グループが、一連の自動車爆弾テロおよび暗殺などによって、著名人や政治家を威嚇する活動を続けた。5月から9月ま で続いたナフル・エル・バーリドでのレバノン軍(LAF)とテロ集団ファタハ・イスラームとの武力衝突では、168人のLAF兵士および推定42人の民間 人が死亡し、およそ3万人のパレスチナ人が国内避難民となった。外国勢力の支援を受けたレバノンの野党は、議会召集を拒否して、大統領選出を阻止し続け た。それでも、フアード・セニオラ首相の率いるレバノン内閣は、政府の機能を確保するために引き続き集中的に取り組んだ。
コンゴ民主共和国では、2006年に歴史的な民主的大統領選挙と議会選挙が実施されたことで、2002年に始まり、破壊的な内戦と地域紛争を終結 させた移行プロセスに終止符が打たれた。選挙の実施は画期的な出来事であったが、それでもなお人権の分野では重大な問題が残っている。2007年のコンゴ 政府の人権実績は、依然として芳しくなかった。報道の自由が低下し、政府関係者による汚職も引き続きまん延していた。鉱物の豊富な東部の一部地域では国内 武力紛争が続き、年間を通じて治安部隊や武装集団が、民間人の違法な殺害、行き過ぎた性的暴力、少年兵の募集と使用、および国連人権監視団に対する嫌がら せなど、多数の深刻な人権侵害行為を行ったが、処罰されなかった。しかしながら、コンゴ政府は11月に、ルワンダ解放民主勢力など、コンゴ東部に残ってい る武装集団への対処方法に関して、ルワンダ政府と合意に達した。
東ティモールでは、2006年の暴動の後、国連および国際社会の支援により秩序が回復され、4月と5月の大統領選挙および6月の議会選挙という2 度の民主的選挙を成功させた。政府は、国家警察の再編成などの改革を開始したが、政府の直接の管理下にはない外部の治安部隊に引き続き大きく依存してい た。司法制度は、改革に向けて前進したものの、依然として外国からの人材および援助に大きく依存していた。同国の混乱の根源にある地域的、個人的、政治的 な対立の問題に取り組む努力がなされたが、2007年末時点でも武装反乱分子が存在していたことが、東ティモールの民主主義の前進を大きく脅かした。
コートジボワールでは、ブルキナファソのコンパオレ大統領の調停により3月にワガドゥグー政治協定への署名が行われ、大きな希望が生まれた。コー トジボワールのバグボ大統領と、かつての反政府組織「新勢力」の指導者ギヨーム・ソロが、迅速に行動して暫定政府を樹立したが、各対立勢力の武装解除、国 家の再統一、身分証明書を持たない人々の国籍認定、新大統領を決める選挙の準備など、和平プロセスの重要な課題は、政治的意志が希薄な状況の中で、緩慢か つ散発的にしか前進していない。
ウガンダでは、2005年に軍隊が反政府組織「神の抵抗軍(LRA)」を同国北部から追放し、2006年に南スーダン政府の調停による和平交渉を 開始して以来、治安および人権状況が大きく改善した。2007年には、LRAによる攻撃の報告はなかった。2006年および2007年には、約40万人の ウガンダ人難民が、自宅またはその近くに帰還した。停戦が続けばさらに多くの難民が帰還する構えである。北部の治安の改善により、子どもたちがLRAによ る拉致を避けるために毎晩紛争地域や国内避難民キャンプから都市の中心部へ移動する、いわゆる「夜間移動」がほとんどなくなった。
説明責任を負わない支配者に権力が集中している国は、依然として世界で最も組織的に人権侵害を犯している国となっている。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の抑圧的な政権は、言論、報道、集会、結社の自由を認めず、移動の自由と労働者の権利を制限して、引き続き国民 の生活のほぼあらゆる面を支配した。この孤立した国からは、依然として、政治犯などの裁判なしの処刑、失跡、および恣意的な勾留が報告されている。本国に 強制送還された難民の中には、厳罰に処せられた人々、また拷問を受けた可能性のある人々もいるとされている。公開処刑が行われたとの報告も続いた。
ビルマの極めて劣る人権実績はさらに悪化を続けた。年間を通じて、ビルマ政権は裁判なしの処刑を継続し、失跡、恣意的な無期限の勾留、強姦、およ び拷問に関与した。9月には、治安部隊が僧侶や民主活動家などよる平和的な抗議デモを容赦なく弾圧し、少なくとも30人のデモ参加者を殺害、その他 3000人以上を勾留した。政府は対話を約束したにもかかわらず、民主主義支持の反体制派や少数民族グループとの真剣な話し合いを始めるとの約束を守らな かった。ビルマ政権は、政治囚全員の早期釈放を求める国連安全保障理事会および東南アジア諸国連合の要求を拒否し、依然として自宅軟禁されているノーベル 賞受賞者アウン・サン・スー・チーをはじめ、反体制指導者らの監禁を続けた。
イラン政府は、恣意的な逮捕と勾留、拷問、拉致、過度の武力行使、そして横行する公正な公開裁判の拒否を通じて、反体制派、ジャーナリスト、女性 の権利活動家、労働活動家、および政府と意見を異にする人々に対する取り締まりを強化して、言論と集会の自由を侵害した。政府は、宗教的少数派や少数民族 の勾留と虐待を継続した。2002年に政府が石打ちの刑に対する一時禁止令を出したにもかかわらず、当局は、処刑の手段として、また姦通罪の刑罰として、 石打ちを使った。イラン政府は、シリア、イラク、レバノンのテロ活動と暴力的な過激派を引き続き支援するとともに、ある国連加盟国の破壊を要求した。
2007年にシリアの人権実績は悪化し、シリア政府は、ますます多くの活動家、市民団体の組織者、およびその他の反体制派を勾留するなど、深刻な 人権侵害行為を継続した。シリア政権は12月に、ダマスカス宣言全国評議会の指導者らを含む著名な人権活動家数名に禁固刑を言い渡した。政府は引き続き、 一部の政治犯を刑事法廷で審理した。例えば、当局は刑事法廷で、人権活動家のアンワル・アル・ブンニとミシェール・キーロを、それぞれ4月と5月に、「戦 時に国民心理を弱体化させた」罪で有罪とした。シリア政権は、国際テロ集団および暴力的な過激派への支援を続け、レバノン、パレスチナ領土、およびその他 の地域でのかく乱活動や人権侵害を可能にした。
ジンバブエの人権活動家にとって、2007年は過去最悪の年であった。近年、継続する危機を解決しようと地域の指導者らが努力してきたにもかかわ らず、人権と民主主義に対する政府の攻撃が大きく増加した。ムガベ政権は、政治的反体制派に歯止めをかける活動を加速させた。公務員の汚職と刑事免責が広 く見られた。人権NGO、メディア、および労働組合の中の反体制派支持者や政府を批判する者のほか、一般市民に対しても、治安部隊による嫌がらせ、殴打、 恣意的な逮捕が行われた。ジンバブエ国内で活動している独立組織からの最近の報告によると、2007年には8000件を超える人権侵害があり、そのうちお よそ1400件が学生に対する攻撃であり、少なくとも1600件が不法な逮捕・勾留であった。人権団体の報告によると、2007年には治安部隊や政府支持 者による身体的・心理的拷問が増加した。被害者らは、むちやケーブルによる殴打、宙吊り、電気ショックを受けたことなどを報告している。
キューバは依然として、ラウル・カストロ国家評議会議長代行とフィデル・カストロ共産党中央委員会第1書記の全体主義的支配の下にあった。キュー バ政権は引き続き、政府を変える権利、公正な裁判を受ける権利、言論の自由、報道の自由、集会の自由、移動の自由、および結社の権利などの基本的な権利と 民主的な自由を国民に与えなかった。政治囚の推定数は、2006年に報告された283人から240人に減少したが、刑務所の環境は、依然として生命にかか わるような厳しいものであり、当局は刑務所内外で、反体制派に対する殴打や嫌がらせを行い、殺すと脅迫した。2003年に逮捕され有罪宣告を受けた平和的 な活動家、ジャーナリスト、組合組織者、反体制派ら75人のうち59人が現在も獄中にある。政府の指示を受けた群衆による著名な反体制活動家に対する攻撃 は、前年までに比べ回数が減少し、激しさも収まってきたが、政府に反対する一般市民の短期的な逮捕・勾留は増加しているようであった。
ベラルーシでは、独裁主義のルカシェンコ政権が、報道、言論、集会、結社、および信仰の自由を制限した。何十人もの活動家および民主主義支持者 が、政治的な動機に基づく告発を受けて逮捕され、有罪となった。2006年の大統領選でルカシェンコの対立候補の1人であったアレクサンデル・コズリン は、依然として政治犯として獄中にあった。1月に、国際的な基準を満たさない地方選挙が行われ、ルカシェンコは支配をさらに強化した。国連総会は2007 年に2年連続で、ベラルーシの人権状況を非難し、人権の行使または促進を理由に勾留されているすべての政治犯およびその他の人々を直ちに無条件で釈放する ことを求める決議を採択した。
ウズベキスタンでは、独裁主義のカリモフ大統領と行政府が同国の政治を支配し、政府のほかの部門をほぼ完全に管理下に置いた。治安部隊は、尋問さ れる被勾留者から自白または自己に不利な情報を引き出すために、拷問、殴打、その他の虐待を日常的に行い、政権にとって脅威と見なされた組織に属するとさ れた囚人が数人、勾留中に死亡した。11月に、国連拷問禁止委員会(UNCAT)は、捜査の過程を通じて組織的な拷問および虐待が行われたとの結論に達し た。政府は、すべてのNGO活動と宗教活動を全面的に統制しようとした。
エリトリア政府の人権実績は、依然として芳しくなかった。言論、報道、集会、結社、および信仰の自由が厳しく制限され、特に政府に承認されていな い宗教団体が厳しい制限の対象となった。当局は、国民が民主的プロセスを通じて政府を変える権利のはく奪、治安部隊による違法な殺害、囚人に対する拷問と 殴打(うち何人かは死亡)、徴兵忌避者の逮捕と拷問(その一部は勾留中に原因不明で死亡したとの報告がある)、生命に関わる厳しい刑務所環境、恣意的な逮 捕や勾留、徴兵忌避者の親族の逮捕、司法に対する行政府の介入、および正当な法の手続きを制限するための特別法廷制度の採用など、数々の深刻な人権侵害行 為を続けた。
スーダンの人権実績は引き続き極めて悲惨なものであり、ダルフールにおいて政府の治安部隊とその代理民兵組織により裁判なしの処刑、拷問、殴打、 および強姦が行われたという報告が続いた。2006年にダルフール和平協定への調印が行われたにもかかわらず、2007年には暴力行為が増えた。政府が村 落への空爆を継続し、反政府グループが分裂して攻撃を強化し、部族間の戦闘が激化するに伴い、この地域の混乱はさらに悪化した。2003年以降、少なくと も20万人が暴力、飢餓、および疾病によって死亡したとされている。米国政府は、この紛争を大量虐殺と見なしており、2007年も罪のない市民が引き続き その影響に苦しめられた。2007年末までに、長引く紛争によって200万人以上が国内避難民となり、さらに23万1000人が国境を越えてチャドに避難 した。政府は、この地域にアフリカ連合と国連の合同平和維持軍を配置しようとする国際的な活動を妨げ、政府の治安部隊は、救命のための人道援助活動を妨害 した。人道援助に携わる人々が暴力の標的となる事例が増えた。国連によると、2007年中に、人権活動家13人が殺害され、59人が襲撃され、61人が逮 捕・勾留され、147 人が誘拐された。
経済改革の進んでいる独裁主義国家の中には、社会が急速に変化する一方で、民主的な政治改革を行っておらず、依然として国民に基本的人権と基本的自由を与えることを拒んでいる国がある。
例えば、2007年の中国の総合的な人権実績は、依然として芳しくなかった。チベットの各地および新疆ウイグル自治区で信仰の自由に対する制限が 厳しくなり、北京では状況の改善を求める人々の扱いが悪化した。また政府は、活動家、作家、ジャーナリスト、被告側弁護士ならびにその家族への監視、嫌が らせ、勾留、逮捕、および投獄を続けた。彼らの多くは、法の下での権利を行使しようとしていた人たちであった。政府は、即時処刑の判決が出た事件に対する 最高人民法院による死刑再審査権の復活など、いくつかの重要な改正を行ったが、労働再教育制度の改正または廃止の取り組みは行き詰まったままだった。新た な暫定的規制によって、外国人ジャーナリストに適用される総体的な取材条件は改善したが、こうした規制の実施には一貫性がなく、一部の外国人ジャーナリス トの活動が妨げられることとなった。2007年には、インターネットの統制と検閲が強化され、政府は言論の自由と国内の報道の自由に対する制限を強化し た。政府は、ジャーナリスト、インターネット・ライター、およびブロッガーに対する監視、嫌がらせ、拘留、逮捕、および投獄を続けた。NGOの報告による と、2007年末時点でジャーナリストが29人、サイバー反体制派およびインターネット利用者が51人投獄されていた。中国の国家治安法は過度に適用範囲 が広く、政府を批判する者の口を封じるために使われることが多いが、2007年には、同法に基づいて国民が有罪判決を受けた件数が2006年比で20 %増加した。12月には、著名な人権活動家の胡佳が、「国家権力の転覆を扇動した」疑いで自宅で逮捕され、勾留された。彼の妻と幼い娘も同時に自宅軟禁さ れたと報告されている。国内のNGOか、国際NGOかを問わず、NGOに対する監視と制限が強化された。
いかなる民主主義国家においても、前進を実現し維持するためには、3つの不可欠な、相互に強化し合う要素が存在していなければならない。
第1の要素は、自由で公正な選挙プロセスである。民主的な選挙は、民主化の道のりにおける里程標である。民主的な選挙は、国家を改革への道に導 き、人権の保護と優れた統治を制度化する基盤を築き、市民社会のための政治的自由を広げる一助となる。しかし、自由で公正な選挙とは、投票日に公正な投票 と正確な開票が行われることだけではない。投票日までの準備期間に、現政権に反対する平和的な勢力が真の競争に参加することができなければならないし、表 現、平和的な集会、および結社の基本的権利が十分に尊重されなければならない。すなわち、各政党が、それぞれのビジョンをまとめ上げ、自由な報道、集会、 および演説を通じてそれを提案することが許されなければならない。
第2の要素は、国民を代表し、国民に対して説明責任を負う、法の支配に基づく政府機関である。民主主義国家には、自由で公正な選挙プロセスに加え て、人格や部族的・民族的な帰属意識だけでなく、思想を基盤とする政党のほか、民主的な選挙で選出された指導者が、就任後確実に民主的な統治を行うように 行動することができる、独立した立法府と司法府のような、国民を代表し、国民に対して説明責任を負う、透明な政府機関が備わっていなければならない。民主 的に選出された代表がつくった法の支配が、汚職の文化に取って代わらなければならない。政府機関が弱体化していたり、その行動に歯止めが利かなくなってい る国、汚職のはびこっている国、そして民族間または部族間、もしくは長年にわたり権利をはく奪されてきた者と固定したエリート層との間で和解が行われてい ない国においては、民主主義が脆弱であることが判明する場合もある。成長を促進する優れた統治政策を採用し、自国の国民に投資する貧困国は、開発援助を賢 く利用し、開発目標を達成して、自国の国民の信頼を勝ち取る可能性が最も高い。国民を代表し、説明責任を負う政府が、法の下での平等な保護を提供すること ができる国では、暴力的な過激派の活動する可能性が低い。
そして第3の要素は、制約を受けない政党、NGO、および自由なメディアを含む、活気のある独立した市民社会である。開放された、回復力のある市民社会は、選挙と選出された人間の公正性を維持し、民主主義の構築を順調に進め、市民が自国の成功に貢献するために役立つ。
ベネズエラでは、民主的に選出された指導者が民主主義制度を弱体化させようとするとともに市民社会を威嚇しようとしたが、激しい抵抗に遭った。 チャベス大統領は2007年に、行政府の権限を強化し、民主主義制度、独立系メディア、および市民社会を弱体化させることを目的とする活動を続けた。彼は テレビ放送の停止を許可する法律を発動して、5月には、政府がラジオ・カラカス・テレビシオンの放送免許の更新を拒否し、全国放送をする残り少ない独立系 ネットワークのひとつを事実上放送停止に追い込んだ。またチャベス大統領は、大統領の任期を延長し再選回数の制限を廃止する憲法修正案、および選挙で選ば れたほかの公職者を政府の中心的役割から外し、経済に対する大統領の支配力を拡大し、国内NGOへの外国からの資金提供を制限する憲法修正案を提案した。 これらの修正案に対しては、賛成派も反対派も含め何万人もの国民が、公のデモ集会を開き、中には暴力的なものもあった。政府支持者は、特に学生をはじめと する反体制派に嫌がらせをし、脅迫を試み、集会で集団に向けて発砲し、負傷者を出した(数は不明)。最終的には、提案された修正案は12月の国民投票で拒 否され、チャベス大統領はこの結果を受け入れた。
ナイジェリアでは、4月に大統領選、議会選挙、および州レベルの選挙が行われたが、これらの選挙には、不正行為が広範に行われたり暴力事件が発生 するなど重大な欠陥があった。しかしその後、選挙で不正行為や暴力事件があっても、同国の脆弱な民主主義が挫折していないことを示す明るい兆しが見られ た。すべてのレベルの選挙結果に対する1200件を超える異議申し立てを聴取するために開かれた法廷で、司法部門がその独立性を貫き、その結果として多く の議会・知事選挙の結果が無効となったのである。強い圧力を受けた政府は、選挙の準備を怠って選挙結果の信頼性を大きく低下させた独立国家選挙管理委員会 の改革を勧告するための委員会を設置した。経済金融犯罪委員会は、政府のあらゆるレベルにおける汚職疑惑を調査する作業を続けたが、大方の見方では、年末 に委員長が異動となったことが汚職対策活動にとって打撃になったとされている。
タイでは、8月に、暫定政権が新憲法に関する国民投票を行った。これは、2006年のクーデター後のタイの民主主義回帰に関する重要な指標であっ た。12月には議会選挙が行われ、票の買収、脅迫、および多少の不正の疑惑はあったものの、この選挙は概して自由で公正と見なされた。非公式の選挙結果に よると、国民の力党(PPP)が議席の相対多数を獲得した。PPPの指導層は、タクシン・シナワット前首相と密接なつながりがある。2007年末時点で、 タイにおける最大の課題は、選挙で選出された政治体制の復活を強固なものとすること、および軍隊の文民統制の強化、民主主義的制度の強化、言論と報道の自 由の尊重の実証、反乱鎮圧や麻薬対策運動における裁判なしの処刑や失跡事件などの人権侵害に対する調査の前進、そして公務員の汚職との戦いにより、クーデ ターの根本的な原因に対処することであった。
ケニアでは、12月に行われた大統領選挙、議会選挙、および地方議員選挙が接戦となった結果暴動が発生したことで、大統領への権力集中の問題や、 憲法改正の必要性といった、ケニアの民主主義制度の根本的な弱点が露呈することになった。選挙監視団の結論によると、投票および開票のプロセスは概して民 主的な基準を満たしたが、投票の集計において深刻な不正が行われた。12月には、選挙後の暴動で、暴徒および警官がさまざまな民族の人々を殺害(数は不 明)し、何万もの人々が難民となった。
市民社会と独立系メディアにとっては、表現、結社、および平和的な集会の自由は酸素のようなものである。これらの基本的な自由がなければ、民主主 義はその生命を維持する呼吸をすることができない。残念なことに、2007年には、あらゆる地域で政府が権力を乱用したり法律を誤用して、NGO、ジャー ナリスト、およびその他の市民社会活動家を抑圧しようとした。この序文で先に述べた、市民社会および独立系メディアに対する制約および/または抑圧に加 え、以下のような事例があった。
エジプトでは、政府による妨害にもかかわらず、反体制の政治活動家、ジャーナリスト、NGOが、改革の主張と政府批判を続けた。政府は引き続き、 元大統領候補アイマン・ヌールを政治犯として拘束し、ジャーナリストを名誉棄損で告発し、インターネット・ブロッガーを勾留し、結社の自由を大きく制限し た。9月には、独立系新聞7社の編集者が、法務大臣の発言の引用ミスから、大統領と与党である国民民主党の幹部に対する名誉棄損まで、さまざまな罪で有罪 とされた。2007年中に警察は、何人かの活動中のインターネット・ブロッガーを数日間にわたり勾留した。政府は9月に、NGOのひとつである人権・法律 支援協会が政府の承認なしに外国からの援助資金を受け取ったとして、同協会の閉鎖を命じた。同協会は、治安部隊の隊員による数件の拷問事件の暴露で一定の 役割を担っていた。
アゼルバイジャンでは、2007年に、報道の自由の範囲が大きく縮小された。監視団は、同年にジャーナリスト8人が有罪判決を受け投獄されたこ と、そして2006年に有罪とされた1人のジャーナリストが2007年も投獄されていたことは、政治的動機によるものと考えていた。(これらのジャーナリ ストのうち7人は、その後2007年中に釈放された。残る2人はまだ投獄されたままであった)また、政治的な動機で逮捕されたと考えられていた別のジャー ナリストは、依然として審理前勾留の状態にあった。政府が5月に発行停止とした新聞社2社が、年末時点でもまだ閉鎖されていた。活字メディアの財務能力を 損なう危険がある名誉棄損訴訟の件数が増加した。ジャーナリストは引き続き、政府または特定の公務員に対する批判と関連していると思われる嫌がらせ、脅 迫、および身体的暴力の対象となった。
ルワンダでは、適用範囲が過度に広く、定義のあいまいな法律を政府が施行する中で、報道の自由が低下した。微妙な問題について政府に批判的である と見なされる意見を表明したり、半独立のメディア規制委員会が監視する報道基準あるいは法律に違反したと見なされた独立系ジャーナリストに対し、政府が嫌 がらせを行い、有罪の判決を下し、罰金を科し、威嚇する事例が増えた。多くのジャーナリストが自己検閲を行った。
ベトナムでは、政府がNGOを厳しく監視しているため、その活動は引き続き制限されていた。政府が反対意見に対する取り締まりを継続したため市民 社会は抑圧され、その結果多数の人権・民主主義活動家が逮捕され、新生の反政府組織が崩壊し、反体制派の活動家数人が国外へ逃亡した。政府および共産党の 支配する大衆組織が、あらゆる活字・放送・電子メディアを独占し、国際ニュースや人権に関するさまざまなウェブサイトを閉鎖した。しかしながら、一部の報 道機関は、次第に検閲の現状を打破していった。
チュニジアでは、年間を通じて政府がジャーナリスト、労働組合指導者、NGOの協力者に対する威嚇、嫌がらせ、逮捕、投獄、および身体的な攻撃を 続けた。また政府は、政府の承認を受けていない組織に対する外国からの資金援助の制約も続けた。ベン・アリ大統領を批判する記事をインターネットに掲載し た罪で2005年に投獄されていた、作家で弁護士のモハメド.・アブーが釈放されたが、国外に出ることは禁じられている。
カザフスタンでは、反体制派メディアが、彼らを標的とした税金・規制関連の捜査、新聞社に対する不当な圧力、およびウェブサイト閉鎖など、政府に よる嫌がらせを受けた。11月には、政府がOSCEの援助を受けて選挙法を改正すること、政党登録の要件を緩和すること、そして報道での名誉棄損に対する 刑事責任の縮小および報道機関の登録手続き緩和というOSCEの勧告を考慮してメディア法を修正することを公約した。
2007年には、さまざまな難問が手におえないまま残る一方で、人権と民主主義を支持する国際的な協力活動が、世界的および地域的なレベルで見られた。
国連総会が採択した国別決議はそれぞれ、北朝鮮、ベラルーシ、イラン、およびビルマの人権状況を非難しており、各国政府による人権および民主的自由の保護と育成が、依然として国連総会第3委員会での中心的な課題となっている。
ビルマ政権が僧侶や民主主義支持者による平和的なデモに対する容赦のない取り締まりを行ったため、国連人権理事会の特別会議が開催された(それ以 外の点では同理事会は重大な欠陥があり非生産的であった)。10月には国連安全保障理事会が、政治囚全員の早期釈放、「アウン・サン・スー・チー氏ならび にすべての当事者および民族グループとの真の対話に必要な条件の整備」、および「ビルマ国民の懸念事項である政治的、経済的、人道的、および人権に関する 課題に取り組むために必要なすべての措置」を求める議長声明を採択した。
世界中で人権と民主主義の原則を保護し推進するには、革新的な手法を取る必要がある。
2004年にブッシュ大統領が国連総会での演説で提案した国連民主主義基金は、飛躍的な成長を続けた。2007年末までには総額3600万ドルに 達し、第2回の補助金提供に向けてプロジェクトの選定が行われていた。提出されたプロジェクト案の件数は、2006年の1300件から2007年には 1800件に増加した。ハンガリーの「民主的移行のための国際センター」のような新興民主主義国家のNGOによる活動、および拡大中東・北アフリカ構想へ の一般市民参加を支援するプロジェクトへの資金提供が優先された。
11月に、マリのバマコで第4回民主主義閣僚級会議が開催され、民主主義と開発の相互関係が検討された。閣僚らは、常設事務局を設置することを決定し、民主主義の促進における市民社会の重要な役割を強調するバマコ宣言を発表した。
地域レベルの組織も、人権の促進、および人権に関する約束をより効果的に実行する組織能力の強化において、大きく前進した。
米州機構(OAS)は、法律改革、司法改革、選挙改革、および市民参加に関する改革の各分野で専門知識を持つ民主活動家100人のネットワークを発足させた。このネットワークは、米州地域の選挙によって選出された政府が民主的な統治の諸課題に対応することを支援する。
アフリカ連合(AU)は、1月に「民主主義・選挙・統治に関するアフリカ憲章」を採択したことをはじめ、AUの人権および民主主義の課題を前進さ せるための機関や仕組みの策定を続けた。この憲章は、複数政党制、自由で公正な選挙、および法の支配と優れた統治に対するアフリカ政府の約束を正式に記し たものである。
OASとAUは、民主主義閣僚級会議に触発されて、7月にワシントンで共同会合を開き、「OAS-AU民主主義の架け橋」を設立した。この「架け 橋」を通じて、両者は、それぞれの民主主義憲章をより効果的に実施し、両地域の民主主義制度の強化することを目的として、ベストプラクティス(最優良事 例)と学んだ教訓を分かち合うことになるだろう。
東南アジア諸国連合(ASEAN)の各国首脳は、11月にシンガポールで行われた会合で、人権機関の新設を求め、ASEAN外相会議がこの機関の枠組みを決定することを認める新たな憲章を承認した。
拡大中東・北アフリカ地域では、非政府団体が「未来のためのフォーラム」に関連する活動を続け、最終的には、12月にイエメンのサナで「並行する 市民社会フォーラム」が開催された。この集まりでは、同地域全体から300を超える市民社会の指導者が一堂に会した。参加者らは、改革の基準を明らかに し、表現の自由と女性の政治的権利の拡大という極めて重要な課題に取り組む2008年の行動計画を示す報告書を発表した。
人権と民主主義の分野での基準設定と制度構築の地域的な先駆者であるOSCEは、一部加盟国が、OSCEの民主制度・人権事務所が行った選挙監視 の完全性を損なうような活動を執拗(しつよう)に続けたことにも耐えた。OSCEは、ロシアで12月に行われた議会選挙の監視をするよう、多くの条件付き で依頼されたが、これを辞退することによって、独立機関による、拘束されない、信頼できる選挙監視という原則を守った。
全世界で人権と民主的自由を促進する米国の活動は、米国民の基本的価値観を反映するものである。同時にそれは、われわれの基本的利益を推進するも のでもある。ブッシュ大統領が述べたように、「自由は、男性、女性、子どもを問わずすべての人間が持つ、妥協の余地のない権利であり、自由は、今日の世界 において恒久平和を実現する道である」
民主主義制度を構築し、人権侵害を明らかにするため、寛容を促進し民族および宗教に基づくマイノリティーの権利と労働者の権利を守るため、女性の 平等な権利を促進するため、そして人身売買を阻止するために、他の民主主義国家および人権活動家と協力して活動するとき、われわれは自らの価値観と利益を 一体とすることができる。活気ある独立した市民社会の発展を支持し、自由で公正な選挙を確保する努力をし、法に基づく民主主義制度を強化するとき、われわ れの価値観と利益は、これ以上ないほど同調する。人権活動家が抑圧の標的となっているときには、われわれが言葉と行動で揺るぎない団結を示すことが、われ われが長年持ち続けた価値観と長期的な利益にとって最も好ましいことである。
日本は、人口およそ1億2770万人の議会制民主主義国家である。主権は国民が有し、天皇は国家の象徴と定義されている。9月25日に安倍晋三氏 の後を引き継いだ福田康夫総理大臣が、自由民主党と公明党の連立政権を率いている。7月29日に参議院選挙が行われた結果、民主党が参議院で多数派とな り、ほぼ半世紀にわたる自由民主党による国会の支配が終わった。選挙は全般的に自由かつ公正な選挙とみなされた。全般的に、治安部隊に対する文民統制は効 果的に行われた。
日本政府は、全般的に国民の権利を尊重した。しかし、女性と子どもに対する暴力その他の虐待、およびセクハラ(性的嫌がらせ)の事例が見られた。 政府の人身売買を阻止する努力にもかかわらず、人身売買は問題として残っていた。女性に対する雇用差別が見られた。人権問題を扱う非政府組織(NGO)の 報告によると、民族その他に基づくマイノリティーに対する差別が見られた。
人権の尊重
第1部 個人の人格の尊重(以下の状況からの自由)
a. 恣意的または違法な人命はく奪
政府またはその職員による、恣意的、または違法な人命はく奪は報告されなかった。
b. 失跡
政治的動機に基づく失跡の報告はなかった。
c. 拷問およびその他の残酷、非人道的、または屈辱を与えるような処遇または処罰
法律によりこのような行為は禁止されており、実際に日本政府は、全般的にこれらの規定を順守した。これまでとは異なり、受刑者や被勾留(こうりゅう)者に対する暴力は報告されなかった。
2004年に留置場で容疑者が死亡した事件で有罪となった警察官3人に対する民事訴訟は、2007年末時点でまだ係争中だった。
日本政府は依然として、死刑囚およびその親族に対し、死刑執行日に関する情報を提供しなかった。死刑囚の親族は、死刑執行後、その事実を告知され た。死刑囚は、死刑執行まで平均7年5カ月間、単独室に収容されたが、親族および弁護士の面会は認められた。また、改正により2007年に施行された刑事 収容施設法により、親族や弁護士以外の面会も許可されることとなった。
受刑者の人権を保護するNGOの報告によると、刑務所の管理部門は、受刑者の独居拘禁に関する規則を日常的に乱用していた。処遇に関する規則は、 独居拘禁の上限期間を規定しているが、刑務所長に幅広い裁量権を与えている。最長60日間までの懲罰としての独居拘禁が認められているが、刑務所の運営手 続き上、刑務所長が受刑者を単独室に無期限に「隔離」することができる。
刑務所および収容施設の状況
刑務所の状況は、全般的に国際基準に合致したものであった。しかし、いくつかの施設では、定員超過、暖房設備の欠如、および食料と医療の不足が見 られた。NGOの報告によると、一部の施設では、受刑者が、寒さから身を守るために必要な衣類や毛布を十分に与えられていなかった。8月には、冷房設備も 扇風機もない収容施設に収容されていた2人の男性が熱中症で死亡した。NGO、弁護士、医者は、刑務所、警察が管理する留置場ならびに入国者収容施設にお ける医療体制を批判した。
これまでとは異なり、受刑者に対する強姦あるいは暴力の報告はなかった。
入国者収容施設において未成年者を成人と別の施設に収容することを義務付ける規定はないが、これまでと異なり、未成年者が成人と同じ矯正施設ある いは入国者収容施設に収容されたという報告はなかった。NGOの報告によると、2006年に茨城県の入国者収容所に成人と一緒に収容されていた16歳の2 人のクルド人移民は仮放免された。しかし、難民認定申請はまだ係争中だ。
刑事収容施設法では、法務省が管理する刑務所および拘置所を、独立性を持つ委員会が視察する旨、規定されている。委員には、医師、弁護士、地方自 治体職員、NGO代表、その他の地域住民が含まれた。受刑者の権利擁護団体によると、委員会は年間を通じて法務省が管理する刑務所を視察した。6月には、 警察が管理する留置場の視察も開始された。入国者収容施設については、独立した視察制度はなかった。人権問題を扱うNGOの報告によると、これまでと比較 すると、刑務所と外部との信書のやり取りが増加しているようである。
5月には、UNCATが、暴力の疑い、拘束具の違法使用、セクハラ、医療体制の不備があるとして、入国者収容施設を批判した。また、入国者収容施設に対する独立した監視制度がないことも批判した。
d. 恣意的逮捕または勾留
法律により恣意的逮捕や勾留は禁止されており、日本政府は、全般的にこの禁止を順守した。
警察および治安維持機構
警察庁および地方警察に対する文民統制は効果的に行われた。日本政府は権利の乱用および汚職の捜査を効果的に行う制度を持つ。2007年には、治 安部隊が関係する刑事免責の報告はなかった。しかし、一部のNGOは、地方の公安委員会が警察機関からの独立性に欠け、警察機関に対する十分な権限も持た ないと批判した。
逮捕と勾留
個人の逮捕は、正当な権限を持つ当局者が十分な証拠に基づいて発付された令状により公に行われ、被勾留者は、独立した司法制度により裁かれた。
法律により、被勾留者には、その勾留の合法性に関する迅速な司法決定を受ける権利が与えられており、実際に当局はこの権利を尊重した。法律によ り、当局は被勾留者に対して、直ちに容疑を告知しなければならない。当局は通常、逮捕から72時間まで、留置場に被疑者の身柄を拘束することができる。さ らに拘束を延長する場合には、その前に、裁判官が被疑者を面接しなければならない。裁判官は、起訴前の勾留期間を10日間ずつ、最長20日間まで延長でき る。検察官はこの延長を習慣的に申請し、許可を得た。検察官はさらに5日間の延長申請を行うことができる。
刑事訴訟法により、被勾留者、その親族、または代理人は、裁判所に対して、起訴された被勾留者の保釈を請求することができる。しかし、留置場に勾留されている、起訴前の被勾留者には保釈が認められなかった。
これまでと異なり、起訴前の被勾留者は、国選弁護士等の弁護士と接見することができた。しかし、受刑者の権利擁護団体によると、実際には、この接 見は時間と回数の両面で制限された。いかなる時点においても、取り調べ中に弁護士が同席することは認められない。親族が被勾留者と面会することは許可され ているが、その際には職員の立ち会いが要求される。
e. 公正な公開裁判の拒否
法律により、独立した司法制度が規定されており、実際に日本政府は、全般的に司法の独立性を尊重した。
裁判所には、家庭裁判所、簡易裁判所、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所といったいくつかの段階があり、最高裁判所が最終的な上訴裁判所である。
審理手続き
法律により、すべての国民に公正な裁判を受ける権利が与えられており、また起訴された個人がそれぞれ独立した裁判所で公開裁判を受けること、弁護 人を得られること、そして反対尋問の権利を与えられることが保証されている。被告は、法廷で有罪と証明されるまで、推定無罪と見なされる。また、被告は、 自己に不利益な供述を強要されることはない。
UNCAT、NGOおよび弁護士は、実際に被告が推定無罪と見なされているかどうか疑問を呈した。法的権利の擁護に取り組むNGOによると、起訴 された被勾留者の大半は、警察に勾留されている間に自白した。被疑者が強制的に犯行を認めさせられることがないように、また被疑者が本人の自白のみを証拠 に有罪判決を受けることがないようにするための保護手段が存在するが、警察の取り調べ手続きマニュアルによると、警察の捜査官には、被勾留者から自白を引 き出すために多大な圧力をかけることが認められている。警察の留置場を使用すれば、被疑者が取調官の監督下に置かれることになるが、そうした事例は、30 余年間増加している。日本政府の統計によると、逮捕された被疑者の98%以上が警察の留置場に送られた。残りの2%は法務省が管理する拘置所に収容され た。第一審裁判所で審理された事件の99%以上で、有罪判決が下された。
2007年には、警察での自白に基づいて有罪判決が下り、後に無罪であることが証明された事例に関するマスコミ報道が散見された。1月には、ある 男性が「不十分な」証拠に基づき不当に有罪判決を受け、25カ月間服役していたことを富山県警と富山地方検察庁が認めた。8月には、捜査官が自白を重視し すぎることがあると認め、冤罪(えんざい)の防止策を提案した報告書を最高検察庁が公表した。
審理手続きは検察側に有利となっている。法律により、弁護人との接見が認められているにもかかわらず、かなりの数の被告が、弁護人との接見不足を 報告した。法律では、検察官の持つ資料の全面開示を義務付けておらず、検察側が裁判で使用しない資料は伏せておくことができる。一部の被告の法定代理人 は、警察の記録にある関連資料を入手できなかった、と主張した。
言葉の壁は外国人被告にとって深刻な問題であった。裁判官、弁護士、および日本語を話せない被告との間で、効果的な意思疎通を確保するためのガイ ドラインはなかった。法廷通訳者になるための標準的な免許制度あるいは資格取得の制度はなく、被告のために翻訳や通訳が行われない状態でも裁判が行われ た。外国人被勾留者の中には、十分に翻訳されず読むことができない日本語の供述書に署名することを警察に強要されたと主張する者もいた。
政治囚と政治的被勾留者
政治囚または政治的被勾留者が存在するとの報告はなかった。
民事司法手続きと救済
民事事件に関しては、独立した公正な司法制度がある。人権侵害に関する事件は、民事裁判所で扱われている。
f. プライバシー、家族、家庭、または信書に対する恣意的な干渉
法律により上記のような行動は禁止されており、実際に日本政府は、全般的にこれを順守した。
第2部 市民の自由の尊重
a. 言論と報道の自由
法律により言論の自由と報道の自由が規定されており、実際に日本政府は、全般的にこうした権利を尊重した。独立した報道機関、効果的な司法制度、および機能する民主的政治制度が相まって、言論と報道の自由が確保された。
インターネットの自由
政府によるインターネットへのアクセス制限はなかった。また政府が電子メールまたはインターネット・チャットルームを監視したとの報告もなかった。個人および団体は、電子メールを含むインターネットを使って、平和的に意見を表明することができた。
学問の自由と文化的行事
政府が学問の自由や文化的行事を制限することはなかった。文部科学省による歴史教科書検定、特に20世紀に関係する特定の題材の扱いが論争になっている。
b. 平和的な集会および結社の自由
法律により集会と結社の自由が規定されており、実際に日本政府は、全般的にこれらの権利を尊重した。
c. 信仰の自由
法律により信仰の自由が規定されており、実際に日本政府は、全般的にこの権利を尊重した。
社会的な虐待および差別
各宗教団体間の関係は全般的に友好的であった。日本国内にはユダヤ教信者約200世帯が居住していると推定されるが、反ユダヤ主義の活動は報告されなかった。
詳しくは、「信仰の自由に関する2007年国際報告書」を参照。
d. 移動の自由、国内避難民、難民保護および無国籍者
法律により、国内の移動の自由、外国旅行、移住、本国帰還の自由が規定されており、実際に日本政府は、全般的にこれらの権利を尊重した。
法律により国外追放は許可されておらず、政府がこれを実行することもなかった。
難民の保護
法律により、国連が1951年に採択した難民の地位に関する条約、および関連する1967年発効の議定書に従い、亡命者として保護し、あるいは難民として認定を行うと規定されており、日本政府は難民を保護する制度を確立している。
実際には、政府は、ルフールマン(迫害の恐れのある国に個人を強制送還すること)に対し、ある程度の保護を提供した。しかし5月に、UNCAT は、日本の法律は拷問の恐れのある国への強制送還を明示的に禁止していないと指摘した。さらに、UNCATは難民申請を審査する独立した機関がないこと、 法務省は難民申請者が上訴のための法定代理人を選択することを認めていないこと、また非居住者への政府による法的支援が制限されていることを批判した。 UNCAT、NGOおよび弁護士は、亡命申請が却下されてから強制送還されるまで、亡命申請者が無期限に、しばしば長期にわたり、勾留されていることを批 判した。
日本政府が難民または亡命者と認定した事例はわずかであった。2006年に法務省に提出された959件の申請のうち、政府が難民と認定したのは 34人であった。また日本は、1951年の難民の地位に関する条約または1967年の議定書の下で難民としての基準を満たしていない53人に対して、一時 的な保護を与えた。2007年に日本政府が難民の再定住を認めた例はなかった。
難民は、少数民族の場合と同様、住居、教育、雇用の機会を制限される差別を受けた。難民認定が未決または上訴中の人は、就業したり社会福祉を受ける法的権利がなく、過密状態の政府の収容施設やNGOの支援に頼るしかなかった。
日本政府は、国連難民高等弁務官事務所およびその他の人道支援団体と協力して、難民および亡命希望者の援助した。
第3部 政治的権利の尊重-国民が政府を変える権利
法律により、国民に、平和的に政府を変える権利が与えられており、日本国民は、普通選挙権に基づいて定期的に行われる自由かつ公正な選挙を通じて、この権利を行使した。
選挙と政治参加
日本では7月に参議院選挙が行われた。全般的に自由かつ公正な選挙が行われたと見なされている。
政党は制約あるいは外部からの干渉を受けることなく活動した。
衆議院では480議席中45議席、参議院では242議席中43議席を女性議員が占めた。20007年末時点で女性知事が5人いた。18人の閣僚の うち2人が女性であった。少数民族の中には複数の民族の血を引いている人もおり、また少数民族であることを自ら明らかにしないため、国会議員となった少数 民族の人数を把握するのは難しかった。過去にはアイヌ民族出身の参議院議員が1人いた。現在、一部の国会議員は帰化した日本人である。
政府の汚職と透明性
法律により、公務員の汚職には刑事罰が規定されており、日本政府は全般的に法律を効果的に執行した。2007年には、政府の汚職に関する報告がい くつかあった。警察庁の2006年の統計によると、贈収賄事件が74件、談合事件が42件あった。2005年の件数は、贈収賄が65件、談合が17件で あった。政治家および公務員が関与した財務会計に関する不祥事が頻繁に報道された。
一般市民には、政府の情報を入手する法的な権利がある。政府が情報公開の合法的な要請を拒否したり、情報入手のために法外な料金を課したとの報告はなかった。
第4部 人権侵害の疑いに対する国際機関および非政府機関の調査に対する政府の姿勢
国内外の多くの人権団体は、全般的に、政府による制約を受けずに活動し、人権侵害の事例について調査をし、調査結果を公表した。政府関係者は、全般的に協力的であり、こうした団体の見解に対応した。
第5部 差別、社会的虐待、人身売買
法律により、人種、性別、障害、言語、および社会的地位に基づく差別は禁止されている。政府は全般的にこれらの規定を執行したが、女性、少数民族、および外国人に対する差別の問題は残っている。
女性
法律により、配偶者間の場合も含め、あらゆる形の強姦が犯罪とされており、政府は全般的に、この法律を効果的に執行した。政府の統計によると、 2006年には1948件の強姦事件が報告され、153人が強姦罪で、6人が集団強姦罪で有罪となった。多くの警察署は、秘密を守って被害者の女性を支援 するために女性職員を雇用した。
女性に対する配偶者からの暴力は、法律で禁止されているが、まだ広く残っている。地方裁判所は、配偶者からの暴力の加害者に6カ月間の接近禁止を 命ずる保護命令を出すことができ、違反者には懲役1年以下または100万円以下の罰金を科すことができる。2006年に裁判所は、2759件の保護命令申 請のうち2208件を受理した。この法律は、内縁関係にある者や離婚している者にも適用されるが、7月に改正され、虐待の被害者だけでなく暴力で脅された 者にも適用されることになった。警察庁の統計によれば、2006年に報告された配偶者からの暴力は、1万8236件に上った。配偶者暴力相談支援センター は、2006年に5万7088件の相談に応じたと報告した。
売春は違法であるが、広く行われている。国内におけるセックスツアーは、大きな問題とはならなかった。
職場におけるセクハラはまだ広範囲に見られた。2006年度に厚生労働省に報告された職場におけるセクハラの件数は、1万1102件に上った。法 律では、セクハラ防止を怠った企業名を明らかにする法的措置が規定されているが、違反した企業の名前を公表する以外には、順守を強化するための懲罰的措置 はない。政府は、差別やセクハラに関する苦情に対処するために、ホットラインを設置したりオンブズマンを指名している。
法律により性差別は禁止され、女性には男性と同じ権利が与えられている。男女共同参画会議が法の施行状況を監視した。同会議の高官レベルのメン バーには、内閣官房長官、閣僚、国会議員らが含まれている。2007年に、同会議は定期的に会合を開き、男女共同参画社会の形成に関する政策を検討し、そ の実現に向けての進展を監視した。
雇用における不平等が依然として社会に根強く残っている。女性は全労働力の41.5%を占めたが、女性の平均月給は22万2600円で、男性の平 均月給33万7700円の3分の2に満たなかった。6月の内閣府の報告によると、経営あるいは政治において指導的役割を担っている女性の数で見た場合、日 本は先進国の中で非常に低い順位にとどまった。
慰安婦(第2次大戦中に日本軍の性的奴隷となることを強要された女性)の問題は、引き続き論争を呼んだ。1995年に政府は、その償いの一環とし てアジア女性基金(AWF)を設立した。同基金は、首相が署名した謝罪の手紙と共に、民間の寄付による補償金を各被害者に送った。慰安婦政策を批判する人 々は、首相の謝罪の手紙は、慰安婦たちが耐えなければならなかった苦しみに対する道義的な責任を取るものであるが、法的な責任は取っていないと主張し、日 本政府に直接補償金を支払うよう求めた。
子ども
日本政府は、子どもの権利と福祉に力を入れて取り組んでおり、全般的に子どもの権利は十分に保護された。
公的学校教育(訳注=高専、大学等を除く)は12年間である。前期中等教育までは義務教育であり、授業料は無料である。最低限の学力基準に達して いる生徒に対しては、後期中等教育(18歳まで)の門戸が広く開かれていた。日本の社会は、教育を極めて重要視しており、文部科学省によると、後期中等教 育の就学率は男女共に94.4%を超えた。どの学年においても、男子と女子の扱いに差異はなかった。
日本政府は、子どもも含め、すべての国民に、国民皆保険制度を提供している。
児童虐待の報告件数は激増を続けた。2006 年度に報告された、親あるいは保護者による児童虐待の件数は3万7343件に上った。警察庁によると、2006年度には、59 人の子どもが虐待によって死亡した。法律により、児童福祉職員には、虐待する親が子どもと面会すること、あるいは連絡を取ることを禁止する権限が与えられ ている。また法律により、しつけの名目で虐待することが禁じられているほか、疑わしい状況に気づいたものは誰であろうと全国各地にある児童相談所または地 方自治体の福祉センターに報告することが義務付けられている。
児童ポルノの多くは幼い子どもに対する残酷な性的虐待を描写するものであるが、法律では児童ポルノの所有を犯罪と見なしていない。法令上の根拠が ないため、警察は捜査令状を取るのが難しく、現行の児童ポルノ処罰法の効果的な執行や、この分野における国際捜査への参加ができない。子どもに性的いたず らをする変質者は、子どもを誘惑するために、実物の子どもを使った児童ポルノに加えて、児童ポルノを描写するアニメや漫画を使用する。日本のインターネッ ト・プロバイダーは、日本が児童ポルノの拠点になっており、内外でさらに子どもの犠牲者を増やすことになると認めている。
人身売買
法律では、性的および労働搾取のための人身売買を犯罪と規定している。
しかし、興行ビザ発行基準の強化、より積極的な犯罪者の捜査および訴追などの日本政府の取り組みにもかかわらず、人身売買は引き続き重大な問題で あった。日本はいまも、商業的な性的搾取およびその他の目的で売買される男女や子どもの目的国および経由国となっている。被害者の出身地は、中国、韓国、 東南アジア、東欧、そして、これより規模は小さいが、中南米であった。また、性的搾取を目的に国内で少女が人身売買されたという報告もあった。
本国のブローカーが女性を募集し、仲介者または雇用者に売り渡し、そして、その仲介者や雇用者が女性を借金で束縛し、労働を強制した。性的搾取を目的とする人身売買の仲介者、ブローカー、および雇用者は、組織犯罪とつながりのある場合が多かった。
風俗産業のために人身売買される女性の大半は、雇用者によって渡航書類を取り上げられ、移動の自由を厳しく制限された。逃亡を試みれば、本人また は家族に報復が行われる、と脅されていた。多くの場合、雇用者はこれらの女性を孤立させ、常に監視下に置き、反抗すれば懲罰として暴力を振るった。一部の ブローカーは被害者を服従させるために麻薬を使った、というNGOの報告もある。
借金による束縛も被害者を支配する手段のひとつであった。人身売買の被害者は、日本に到着するまで、自分の借金の金額、その返済に要する期間、お よび到着と同時に課せられる雇用条件を理解していない場合が多かった。通常、契約開始時にこうした女性たちが負っている借金の金額は、300万~500万 円であった。その上、生活費、医療費(雇用者が提供した場合)、およびその他の必要経費の支払いを要求された。反抗を理由に当初の借金に「罰金」が追加さ れた。雇用者がこうした借金を計算する方法は不透明であった。また雇用者は問題を起こす女性や、HIVに感染している女性を「転売」し、あるいは転売する と脅して、女性の借金額を増やし、労働条件をさらに悪化させることもあった。
警察による法執行の強化により、多くの風俗店経営者は、店舗型の営業から「派遣型」のエスコートサービスに移行した。そのため人身売買の被害者が雇用者から搾取されている程度を推し量ることが難しくなった。
NGOやマスコミは、国際研修協力機構の監督下にある日本政府支援研修プログラムである「外国人研修」制度がしばしば悪用されていると報告した。 一部の企業では、研修生が時間外手当無しで残業させられ、最低賃金未満の給料しかもらっていなかったという報告があった。さらに、「強制預金」は違法であ るにもかかわらず、研修生の給料は企業が管理する銀行口座に自動的に入金された。労働者の権利を擁護するNGOによると、研修生は渡航書類を取り上げら れ、「逃亡しない」ように行動が制限される場合もあった。日本政府は研修生制度の見直しが行っていたが、12月に法務省は、さらなる制度の悪用を防ぐた め、研修生受け入れ機関に適用される指針を改定した。
人身売買の罪を犯した者の訴追状況は大幅に改善した。2006年には適用法の下で、78人の人身売買容疑者が逮捕され、17件が起訴され、15人 が有罪判決を受けた。この数字は、2005年には数件しか起訴されず、有罪判決は1件だけであったことと比較すると著しい増加であった。2006年の15 件の有罪判決のうち、12人が1年から7年の実刑判決を受け、3人が執行猶予付きの判決を受けた。
警察庁が警察による人身売買事件の処理および被害者の認知を監督したことにより、著しい改善が見られた。それにもかかわらず、警察および入国管理 官が被害者の認知を適切に行うことができなかった、という報告が引き続き見られた。例えば、NGOの報告によると、搾取される状況の中で働いている女性 が、不法就労を目的に自ら進んで入国していたという理由で、警察および入国管理官が彼女たちを人身売買被害者として分類しなかったことが時々あった。
厚生労働省は、警察や入国管理官が、配偶者からの暴力の被害者向けの既存のシェルター網を、本国への送還を待つ外国人人身売買被害者向けの一時的 な住まいとして利用することを奨励した。政府は、被害者の医療費を負担し、また国際移住機関(IOM)への補助金を通じて本国への送還を支援した。厚生労 働省の報告によると、2006年度には、36人の女性が民間および公共のシェルターで保護された。またIOMの代表者は、日本政府の援助を受けて、41人 の女性の本国への帰国を支援した。
一般的に、政府のシェルターは、人身売買被害者に十分なサービスを提供できる資源を備えていなかった。人身売買被害者の援助を専門に行うNGOの シェルターには、7カ国語以上を話すことのできるフルタイムのスタッフがそろっていたが、厚生労働省のシェルターは、外部の通訳業者に頼らなければならな かった。政府のシェルターに収容された外国人女性の被害者たちは、人身売買被害者の特殊なニーズを理解する専門家から母国語による十分なカウンセリングを 受けることのできない状況に置かれて、できる限り早く本国へ帰国することを選んだ。政府は、被害者の民間シェルターへの滞在を支援するための資金を用意し ていたが、被害者の大半は公共のシェルターに送られた。
障害者
法律により、雇用、教育、および医療において身体障害者や精神障害者に対する差別は禁止されており、日本政府はこれらの規定を効果的に執行した。政府は、障害者が市民活動に参加する権利を支持した。
障害者は、全般的に、雇用、教育、またはその他の公共サービスにおいて公然と差別されることはなかったが、実際には、こうしたサービスの利用は制限されていた。大学生全体に占める障害者の比率は0.2%未満であった。
法律により、政府および民間企業は、障害者(精神障害者を含む)を一定の比率以上雇用することが義務付けられている。従業員300人以上の民間企 業がこれを順守しなかった場合は、法定雇用数に足りない障害者1人当たり毎月5万円の罰金を支払わなければならない。厚生労働省のデータによると、政府に よる障害者雇用は最低基準を超えていたが、民間部門では、2007年よりは増えたものの、公共部門に遅れを取っていた。
2006年12月の(建築物の)利便性に関する改正法により、公共施設の新たな建設プロジェクトでは、障害者のための設備を整備することが義務付 けられた。また政府は、病院、劇場、ホテル、およびその他の公共施設の経営者が、障害者用の設備を改善または設置する場合には、低金利の融資および税控除 を受けることを認めている。
国籍・人種・民族に基づくマイノリティー
部落民(封建時代に「社会的に疎外された者」の子孫)、および民族に基づくマイノリティーは、その程度はさまざまであるが社会的差別を受けた。お よそ300万人いる部落民は、政府による差別は受けていないが、住居、教育、雇用の機会を制限されるなど、深く根付いた社会的差別の被害者となることが多 かった。NGOの報告によると、大都市圏以外ではまだ差別は広範囲に及んだ。
差別に対する法的な保護措置にもかかわらず、大勢の韓国・朝鮮人、中国人、ブラジル人、およびフィリピン人の永住者は、その多くは日本で生まれ、 育ち、教育を受けているにもかかわらず、住居、教育、および雇用の機会の制限など、さまざまな形で、深く根付いた社会的差別の対象となった。日本国民の間 で、「外国人」(その多くは日本で生まれた民族に基づくマイノリティー)が犯罪のほとんどを起こしているとの認識が広がっていた。法務省の統計によると、 不法入国および不法滞在を除外すると、「外国人」の犯罪率は日本国民の犯罪率よりはるかに低いにもかかわらず、マスコミがこのような認識を助長した。
多くの移住者は、帰化を阻む障害の克服に苦労した。そうした障害には、審査を行う担当官に広範な自由裁量が認められていること、日本語の能力が極 めて重視されることなどがある。日本に5年間継続して居住した外国人は、帰化および国籍取得の申請資格を与えられる。また、帰化手続きには厳しい身元調査 が必要であり、申請者の経済状態や社会への適応状況なども調査される。日本政府は、この帰化手続きは、外国人が社会にスムーズに同化できるようにするため に必要なものであると主張した。
先住民
1997年制定の「アイヌ文化の振興ならびにアイヌの伝統等に関する知識の普及および啓発に関する法律(アイヌ文化振興法)」により、アイヌは少 数民族と認定され、全都道府県にアイヌの文化と伝統を振興する基礎的なプログラムを策定することが義務付けられ、アイヌを差別した旧法が無効とされ、北海 道にアイヌの共有財産を返還することが義務付けられた。アイヌは、他のすべての国民と同じ権利を享受したが、明らかにアイヌであると識別されると、他の民 族に基づくマイノリティーと同様の差別を受けた。
その他の社会的虐待および差別
性的指向に基づく、あるいはHIV・エイズ感染者に対する社会的暴力や差別の報告はなかった。
第6部 労働者の権利
a. 結社の自由
法律は、労働者が事前認可あるいは過度の要件なしに、組合を結成し、自分が選んだ組合に所属することを認めており、日本政府は同法を効果的に執行 した。労働組合は、政府の統制や影響を受けなかった。しかし、これとは別の法律により、公務員の基本的な労働組合権はかなり制約されており、組合結成には 「事前認可が実質的には要求されている」。2006年には、全国の労働人口のおよそ18 %が労働組合に所属していた。
b. 団結権と団体交渉権
公務員および公共企業体の従業員を除き、法律により、労働組合は干渉されることなく活動することが認められており、日本政府はこの権利を保護し た。団体交渉権は法律により保護されており、自由に行使された。組合には、ストライキをする権利があり、労働者は実際にこの権利を行使した。
日本には、輸出加工区はない。
c. 強制労働の禁止
法律により強制労働は禁止されており、これは子どもにも適用される。しかしながら、そのような強制労働が行われたという報告が複数あった。労働者 の権利を擁護するNGOの申し立てによると、一部の企業は外国人労働者を違法に残業させ、手当てを払わず、渡航書類を取り上げて移動を制限し、給料を企業 が管理する銀行口座に強制的に入金させた。日本の法律や法務省のガイドラインでは、こういった慣行を禁止している。
d. 児童就労の禁止と雇用の最低年齢制限
法律により職場における子どもの搾取は禁止されており、日本政府は法律を効果的に執行した。法執行の責任は厚生労働省にある。法律により、15歳 から18歳の子どもは、危険な、あるいは有害と指定される仕事でなければ、いかなる仕事でも従事することができる。13歳から15歳までの子どもは「軽労 働」であれば従事でき、13歳未満の子どもでも芸能界であれば働くことができる。人身売買および児童ポルノの被害者以外では、児童就労は問題にならなかっ た。
e. 許容される労働条件
最低賃金は、都道府県および産業別に、労働者、雇用者、および一般市民の3者から成る審議会に諮問した上で、設定される。最低賃金が適用される雇 用者は、その最低賃金を表示しなければならない。最低賃金は広く順守されていると見なされた。都道府県により、最低賃金は、時給618円から739円まで 幅があった。最低賃金の日給は、労働者とその家族がある程度の生活水準を維持するのに十分であった。
法律により、ほとんどの産業で労働時間は週40時間と規定されており、週40時間、または1日8時間を超えて働いた場合には、割増賃金を支払うこ とが義務付けられている。しかし、公務員を含め労働者が、日常的に、法律で定められた労働時間を超えて働いていたことは、国民の広く認めるところであっ た。労働組合は、政府が労働時間制限の執行を怠っている、と批判することが多かった。
日本労働組合総連合会によると、労働者を非常勤として非正規で雇用する企業が増加している。そういった労働者は労働力の3分の1を占め、不安定な 雇用条件に耐えて低賃金で働いた。派遣社員も同様の不公平な雇用条件に直面していると報告された。活動家団体は、日本語や日本における法的権利をほとん ど、または全く知らないことが多い外国人を雇用者が搾取していると申し立てた。
政府が、労働安全・衛生基準を設定する。厚生労働省は、労働安全・衛生に関する各種の法律・規則を効果的に実施した。労働基準監督官は、安全でな い操業を直ちに停止させる権限を有し、また法の規定に基づき、労働者は、雇用の継続を脅かされることなく、職業安全について懸念を表明し、安全ではない労 働環境から離れることができる。
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