戦後、広範な大阪在住の華僑の強い要望から1946年3月、かつての北幇公所があった場所に近い大阪市西区にある「本田国民学校」(現大阪市立本田小学校)の校舎の一部を借りて「関西中華国文学校」が創立された。
第2次世界大戦中の米軍の空襲で焼失するまで、大阪にも華僑子女のための民族学校が「北幇公所」(北方出身の華僑の互助組織で現在も存続している)の中 に「振華学校」という形で存在していた。幼いころの私の記憶でも焼失した建物の一部煉瓦の壁が焼け残っていたが、すべての資料も焼失してしまい、今、その 歴史をたどることはできない。
戦後、広範な大阪在住の華僑の強い要望から1946年3月、かつての北幇公所があった場所に近い大阪市西区にある「本田国民学校」(現大阪市立本田小学 校)の校舎の一部を借りて「関西中華国文学校」が創立された。そしてその年の9月「大阪中華学校」と改称された。当時は9月開始の学年制をとっていたが 1950年に日本の学年制同様4月新学年開始に改められた。
開校当初は小学部しかなかったがすぐに中学部も創設された。この時期多くの大阪の華僑子弟は神戸同文学校に通うか日本の一般の小中学校に通うしかなかっ た。大阪中華学校の開校により、ここに転校してくるものも少なくなかった。日本の小学校に通っていた生徒はたとえ4・5年生であっても新たに中国語教育を 受けなおす必要から1年生からの授業を受けることを余儀なくされた。
そのため開校当初は各学年のクラス内の年齢はバラバラであった。私もこの学校の小学部の卒業生であったが、私の場合日本の幼稚園を半年早く辞めて5歳の 9月に小学1年生となった。その時のクラスメイトには10歳くらいの年長者もいた。その後、4年生の時日本の学年制に合わせるため半年間繰り上げられ、4 月新学年と改められた。つまり計5年半で小学部を卒業することとなった。
こうした「混乱期」には年長の同級生たちは中国語の能力がつくに従って上級のクラスへ上がったり中には飛び級したものもあった。余談であるがそのため今、私たちは1級上の学年の人たちと合同のクラス会を開いている。
本田小学校に間借りをしていたころは隣接する「本田小学校生」と昼休み時などにしばしば彼らの中国人に対する侮蔑的な言葉を発端として「喧嘩」となっ た。わが方には中学生もいたし年長の同級生もいたのでいつも彼らを蹴散らして喧嘩は勝利に終わることが多かった。いかし、いま振り返るとあちらの学校に 通っていた華僑の子女も少なくなかったからその人たちは学内でいじめられてはいなかったか今更であるが心が痛む。
1956年 自前の校舎が建てられる
開校当初は多くの教員が中国からの留学生や華僑の知識人で占められていた。1953年この学校が「中華民国僑務委員会」の「中華初級中学及び付属小学」 と認定された。この時期に台湾から教員として人が派遣されたりし始めた。その後1956年、華僑の有力人士の寄付等で大阪市浪速区の現在地点に小さいなが らも悲願の自前の校舎が建てられここに移転した。この地域は戦後多くの華僑が移り住んでいた繁華街「難波」(NANBA)に近いということが新校舎の建設 地に選ばれたのであろう。
1960年に大阪府準学校法人の資格を認定された。この頃から府立高校の選抜試験前に日本の学校教育法に基づく認定校でなかった中華学校卒業生だけに義 務付けられていた「学力検定試験」がやっと廃止された。これはそれまでの卒業生の多くが府立高校での成績が日本人生徒に引けを取らず、むしろ優秀であった ことが評価されたのであろう。
1967年に幼稚部が併設され、3歳児からの中国語による3年保育を合同して実施している。1985年には大阪府の学校法人の正式認可を受けて以来、私 学助成金を一部少額ながら受けている。ただ今年就任した橋下大阪府知事はこの助成金の減額を計画しているので学校側はその行方を心配している。
この学校は中国語を基本として「中華民国」で現在発行されている「検定教科書」(民間製)の3~4種類の中から教員たちが協議して採用・利用している。 そのほか小学1年から週4時間以上、日本語の授業を行い、英語とパソコンの授業も週1時間設けている。これらの授業時間は学年が進むと同時にその時間数は 増してゆく。つまり小学1年から彼らは日本の小学生に比べて1週間に約5時間授業時間が多いこととなっている。
この学校では台湾で発行されている教科書がすべての教科で基本的に使用されている。そのため「繁体字」と「注音符号」(中国古来の発音記号)を使用して きた。ただ今年度からは5年生以上の授業では大陸で使用している「漢語拼音」による発音表記をも教える。これはパソコンなどで中国語の文章を書くのに便利 だからだという。ただ大陸で用いている「簡体字」はあえて教えないとしている。これは「簡体字」には漢字の成り立ちの基本などがなく、古典などが読めない からという。
学校は低学年の通学の安全のため、父兄による送迎を義務付けている。特に下校に際しては各担任教師が父兄の顔を確認して一人一人送り出している。これは学校・父兄ともに大きな負担ではあろうが、昨今の日本の治安状況から必要なのかもしれない。
さて、この学校も私学であるため日本の公立校と違い入学金や授業料などの学費が必要である。入学金は小学部と幼稚部3万円、中学部5万円(3人目は免 除)で授業料は年額、幼稚園生19.2万円、小学低学年は21万円、小学高学年は21.6万円、中学生は22.2万円である。学校の定員は各学年40名で あるが現在いずれも定員に満たない。そのためも毎年赤字であり、理事会が管理するビルの収益金と華僑の寄付金に頼らざるを得ない。ただ今年度は定員に近い 38名の入学者があり関係者をすこし喜ばしている。
この学校も神戸などと同様、華僑・華人の子女が学生の中心であるが、純日本人の子女も少なくない。2月の春節祭に何人かインタビューしたが異口同音に教職員の熱心さと進学先のレベルの高さに期待し、中・日・英と3カ国語が学べる国際学校としての価値を評価している。
ただ今回の取材で驚いたことにこうした純日本人子女は大阪府立高校を受験する際、中華学校を卒業して1年を経ないとだめだという。そのため中学2年生修 了時に日本の中学に転校する以外は、1年の「浪人」(ROUNIN)を余儀なくされる。このことは大阪府教育委員会が親たちの「義務教育」を受けさせな かったことに対するペナルティーであるようだ。国際化が叫ばれている中、大阪府教育委員会の措置はいかにも時代錯誤だと思い、怒りを禁じえない。
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