「暖春之旅」と胡錦濤主席にただよう緊張感
5月6日~10日にかけて日本を訪問した中国の胡錦濤国家主席は、来日後、過密な日程の中で過去の日中友好に事跡を残した官民の日本人との面談、交流を積 極的に行った。歴史的な日中国交を成立させた故・田中角栄首相の親族、胡錦濤主席自らが「3000人日中青年交流」事業に参画した際の首相であった中曽根 康弘氏、それ以来の交流で夫妻ともファンであるという歌手の芹洋子氏、さらに文化大革命時代の抗日闘争礼賛バレー劇「白毛女」を日本側で唯一公演し、中国 でも公演して絶賛された松山バレー団関係者など、胡錦濤主席が懇談したり訪問面談したりした日本側関係者は多肢にわたった。
今回、外国首脳の訪日として異例だったのは、実は日本側のあまりに盛大で丁重な歓待ぶりである。天皇陛下の謁見や陛下主催の歓迎晩餐会を含め、胡錦濤主席 の出迎え、歓迎晩餐会、見送りと3度にわたり面談したというのもかつてない御配慮であったし、特に歓迎晩餐会の規模は過去の米大統領訪日を迎えた際以上で あったという。日本政府としての対応も、訪日歓迎一色で中国に対する「友好ムード」を前面に押し出したものだった。
こうした雰囲気を中国のマスコミは敏感に感じ取り、官製マスコミを中心に今回の胡錦濤主席夫妻訪日を「暖春之旅」(暖かい春の旅)と称して“成功”ぶりを 中国の国内で喧伝した。3月以来のチベット族暴動の発生、それに連続して世界各地で北京オリンピックに向けた聖火リレーに対し「中国政府によるチベット族 弾圧」に抗議する動きが頻発するといった状況下、初めての本格的な国家元首外遊だっただけに、今回の訪日成功にかけた中国政府側の期待感と緊張感は、並の ものではなかった。
率直に指摘すれば、チベット問題表面化や東シナ海ガス田開発、さらに 「毒餃子」問題への対応など一連の中国政府の行いが日本国民の間に醸成している反発感は、尋常ではないものとなっている。残念ながら、福田現政権の無策ぶ りと「死に体」同様の状況により、これら懸案が日本国民の希求する方向でなんらかの実質的前進を中国側に約束させるような外交成果は生まれなかったと見ら れる。それでも、大過なく胡錦濤主席訪日がなされたことに、日中両国政府でこれに関わった人々は安堵したという。
しかし、訪日中の胡錦濤主席には、軍事力に支えられた強大な権力を有する共産主義国家の元首とは裏腹なソフト・イメージ以上に、今回の訪日の中で緊張に強 いられた消沈ぶりが見られたという。3度にわたる天皇陛下との面談で、中国が国威をかけて準備してきた8月の北京オリンピックについての言及が一切出な かったことや(関係者は、主席が当然天皇陛下「招聘」を口にすると予測していた)、昨年70周年を迎えた「南京虐殺事件」などの「歴史認識問題」を過去の 中国首脳のように「両国の不幸な出来事について、共通認識を持つべき」などと述べるようなことのなかったことは、密接にアテンドした日本政府関係者や取材 関係者に静かな驚きを広げている。
今回の訪日とは、いったい何だったのか?
「暖春之旅」の中で胡錦濤主席の緊張を帯びた消沈ぶりは、何を示すのか。それは、現在、世界の他の地域には見られない国家経済の高成長ぶりの裏ですすむ共 産主義国家建設途上で形成された矛盾の歴史的肥大化と、体制瓦解への予兆なのである。一言でいうなら、共産主義国家崩壊の歴史的波濤が、民族主義台頭とい う形で大国・中国を覆い始めたことに対するいいようのない不安なのだ。
共産党独裁の下地を流れる漢族中心の大中華民族主義
外交関係で、あるいは商業取引などで中国側と交渉を重ねた経験がある人たちがカウンターパートに対して感じられるものとして一様に語ることに、「大中華民 族としての大国意識、世界の中心民族としての自負」がある。「中国4000年の歴史」とは、日本人ですら中国を語るときの枕詞としてよく使うものである が、これは長い歴史に裏打ちされ、周辺に文化的影響を深く与えながら繁栄したという中国人のアイデンテティーの根幹を成す大国意識をよく示すものでもある (実際は、文学的伝承こそあるものの客観的な成文史が不在であるのが中国史の特徴なのだが)。
実は、歴史以上にいまの大中華民族意識を形成する最大の要因となっているのは、13億中国人民の9割以上を占める漢族の存在である。国外に在住する華僑を 含めるなら、世界総人口の5分の1以上となる漢族は、共通の文字と慣習を持ち、それとして完結した物質的・倫理的世界を形成している。そして、自分たちの 持つ価値観や生活慣習が世界標準であるべきとの意識を、自ずと集団的に形成してきている。
1949年10月に現在につらなる共産主義政権・中華人民共和国が成立したが、以後、政治・経済体制的には共産主義的指向の統制型と資本主義指向の二種の 体制が中国には並存されてきた。1978年に指導者・鄧小平が「改革・開放」経済を唱えてから、中国に於いては共産主義的統制型経済と資本主義経済の垣根 がどんどん取り払われ、いまや台湾の中華民国や英国から返還された香港と同様に中国大陸全体にわたって市場経済への移行が成し遂げられてきたが、政治体制 的には中華人民共和国は「党的力量」である人民解放軍の強大な軍事力に支えられた中国共産党による事実上の一党独裁が続いている。「中国の国会」といわれ る全国人民代表大会の委員も、国民による直接選挙ではなく、各地の地方における人民代表による信任投票で選出されるもので、その名簿は基本的に中国共産党 が提示するものである。
つまり、資本主義的経済体制という対応すべき政治・思想形態では多 様な価値観と民主主義を基本とする政治体制があるべきところを、選挙では民意の直接反映がされない上、対立党派によるチェック機能が働かない硬直した政治 体制が続いているのである。これは、結果として行政機能に金権腐敗体質をもたらすものとなる。
「改革・開放」政策への転換を宣言した鄧小平は、「まず富める者から富んでいってよい」と述べ建国以来の経済的失政の連続で「国内全体があまねく貧乏」と いう悪平等が否定されたのだが、市場経済への移行の中でまず富んでいった者とは、共産党の権力を背景に絶対有利な条件で経済活動へ介入していった党や政府 幹部及びその親族たちだった。こうしたエリートたちとその周辺が、市場経済に移行し急速な成長を記録してきた中国経済の中で貧乏ながら安定した暮らしの中 に置かれていた都市労働者や農民などの下層人民は、激しい競争と不安定な雇用環境がうずまくカオスのような資本主義経済の荒波にもまれるようになり、居住 地や雇用が流動化する中で貧富の格差が拡大していくようになった。
市場経済の本格的到来と いう大陸側の中国の歴史上、初めての流れの中で絶対的権力を力に経済的利権構造を掌握し、ますます富を重ねる中国共産党政権下の支配層に対し、都市部、沿 海部を中心に一部の人々も経済発展の恩恵を受けるようになったが、内陸部の農民を含む圧倒的多数の中国人民は、自らの置かれた不安定な雇用状況と低収入、 劣悪な生活条件に大きな不満を抱くようになっていった。「為人民服務」(人民のために服務する)をスローガンにしていた中国共産党を頂点とする支配機構 は、中央から地方末端までの統治機構から企業活動の先端部まで利権掌握のためにがっちりとシステムを固めた一部特権層のためのものとなり、いまや中国革命 の過程で掲げられた共産主義の理想である「働く人民が主人公」「働く人にあまねく保障される安定した生活」という目標は完全に喪失されてしまったのだ。
以上の過程で、古典的な共産主義教義に基づく「労働者、農民が主人公の国づくり」というスローガンに代わって、現在の中国に国家統合のイデオロギーとして 勃興するようになったのが、大中華ナショナリズムである。このナショナリズムは、混沌とした市場経済下の中国を統合する共通の旗印として、若手のエリート 層から青年学生、下層労働者までとらえるものとなり、2005年の反日デモの頻発のような過激な「愛国運動」の展開として発露を見出すまでになったのであ る。
大中華ナショナリズムは、実際は中華人民共和国の歴史の中で一貫してその裏をとうとう と流れ続け、中国共産党一党独裁下の国家施策に根強く反映された漢族中心主義という形で深い刻印を残してきた。この矛盾がいま、貧富の格差の拡大と進まぬ 政治面での民主化を背景に大きく肥大し始めていることを示しているのが、チベット問題をはじめとする中華人民共和国内の少数民族問題なのである。
“侵略”どころではなかったチベット、ウイグルなど
少数民族への軍事力による「改革」の押し付け
3月14日、チベット自治区のラサで「民族的自治権の拡大」を求めたチベット族僧侶や都市住民たちによる暴動が発生。公安(一般警察)の手では押さえきれ ず、準軍隊として本格的な装備を持つ強力な人民武装警察や、一部では人民解放軍が出動して激しい衝突(一部では、銃撃戦もあった)の末、数千人が逮捕さ れ、相当数(数百といわれる)の犠牲者を出した。本紙が独自に把握した情報では、取り締まり側や漢族住民にも相当数の犠牲者が出ており、特に略奪と破壊に あった漢族経営の店舗や居住区では逃げ遅れた高齢者や婦女子が惨殺されたケースもかなりあったという(本紙につらなる大陸筋によると、「共産党政権は、漢 族による報復が連鎖して“民族紛争化”するのを畏れ、漢族の被害を過少に発表している」という)。
実は、これに先立ち、中国北西部の新疆ウイグル自治区でも民族問題を背景とした紛争や事件が頻発していた。いずれも、ことし夏に北京でオリンピックが開催 されることを念頭に国際社会の注目を集めるために引き起こされたもので、19歳のウイグル少女が旅客機内で起こしたガソリン放火未遂事件は、「オリンピッ ク開催阻止」を叫ぶ反政府グループの企図したものであることが判明している。
一方で、北京政府に近い筋によると、内モンゴル自治区や朝鮮族が多数居住する吉林省や遼寧省でも不穏な動きがあるという。
中華人民共和国の、公式見解では56に及ぶ少数民族が存在し、「それぞれの民族の言語や習慣、文化を尊重する自治的統治策が実施され、さまざまな面で差別 が排除され優遇措置もとられている」とされている。中国を訪問したある日本の政治家に対し、共産党首脳の一人は「我が国は、少数民族に対する統治策に長け ている。十分な歴史的経験をもっている」と胸をはって語ったという。実際、漢族以外の少数民族が中国の総人口にしめる割合は、10%にもならない。こうし た少数派の人々の動向が大国・中国を揺るがすような事態を生起させることは、常識的には考えにくい。
しかし、ことしに入って続発しはじめたチベットやウイグルに於ける事件は、中国共産党指導部と軍を含む統治機構全体を大きく震撼させるとともに、国際世論 にも大きな反響を呼んだ。騒乱平定と亡命チベット勢力への対処での二転三転ぶり、その後に国外で行われたオリンピック聖火リレーの際、各国で問題とされた 中国側組織による留学生らの過度な民族主義的パフォーマンスとチベット自治・独立擁護を叫ぶ勢力との衝突劇は、少数民族問題についての中国共産党政権によ る失政を示して余りあるものである。チベット族が居住する各地で連続的に発生した暴動・騒乱の原因は、歴史的に根深いものである(実際、本紙につらなる大 陸筋は、「国際社会が要求するままに、少数民族の自治や権利拡大を認めれば、中華人民共和国は崩壊する」と中国共産党幹部たちが述べていることを伝えてき ている。人口比1割もいかない少数民族の動向に対して、それほどまで深刻な危機感を持っているのである)。
チベット、ウイグルなどで騒乱が起こる背景について、中国の国外に亡命した人々は「漢族中心主義の民族文化の否定、就職、教育機会等、社会生活面での少数 民族への差別の存在」をあげる。そして、いずれも「信仰の自由を含めた民族的宗教や文化の尊重、大幅な民族自治権の拡大」を要求する。
このような少数民族の命がけの抗議活動や騒乱に訴えてまでの要求の根強さは、1950年代以来の中国共産党政権が強行した軍事的平定と社会改造の押し付け が根底となっている。よく、我が国で「チベットに自由を」と叫びチベット族の支援を訴える人々は、「人民解放軍によるチベット侵略」を問題の歴史的根源と とらえる。しかし、「中国共産党の党的力量」であり「革命の推進力」であった中国人民解放軍による少数民族地域への進出は、「軍事的侵略」以上の重大な内 容を持つものである。それは、「鉄砲から政権が生まれる」とされてきた中国の軍事力による政変の伝統をふまえ、占領した地域の社会経済体制を武力を背景に 強引に変革し、それぞれの民族が歴史の中ではぐくみ積み重ねてきた文化や社会システム・慣習を否定することに最大の特徴がある。
国共内戦に引き続き、中国全土を平定していった人民解放軍は、占領した地域に対して「階級闘争史観」にもとづく住民宣撫工作を行いつつ、地主や経済的有力 者、旧官吏や聖職者などを逮捕し、「人民裁判」の下で徹底的に「罪状」をあげつらい処断する。結果として、これら有力者たちは財産を没収された上によくて 追放・労働改造の刑に処されるか、悪い場合は即決で死刑となる。これらの人々が担っていた統治システムに成り代わり、派遣されてきた中国共産党員を中心と した「地方人民政府」が組織され、北京政府の末端支配機関が成立させられる。結果として、「地方人民政府」のトップや主要幹部を占める者は、中国共産党指 導部と同様に標準語を解するとともに思考を同じくする漢族出身者が圧倒的多数者となり、共産主義的な「一刀両断」主義の過激な統治手法に大中華民族主義思 想が加味されたシステムが構築されていくようになる。
1911年の辛亥革命以来、ラマ仏教 を国教にいただき自治権を拡大していたチベット地区や第二次世界大戦中に周辺に居住するテュルク系民族(イスラム教を信仰するトルコ民族の源流で、ウイグ ルやカザフなどの中央アジア諸民族)を中心に自治傾向を強めていたウイグル地区に対して、人民解放軍が1950年代に入ってすぐから侵攻して進めた「社会 改造」は、過酷を極めるものだった。その成員の多くが漢族で占められた解放軍は、これら少数民族の生活習慣や信仰、社会システムを「遅れた民族による封建 社会体制」とみなし、自らを「先進的民族」としてみなす自負を共産主義的教義に結びつけ、強引な変革を押し付けるのになんらの躊躇もなかった。
こうした社会改造後、1960年代から70年代にかけての中国歴史上、最大の失政といえた「大躍進政策」「文化大革命」は、これら地域の貧しい農業や牧畜 業の基盤に大打撃を与えるとともに宗教や旧来の思想に対する極端な敵視策に基づく宗教的施設の徹底的破壊を推し進めて民族固有の信仰と文化を傷つけ、チ ベット族やウイグル族を痛く憤慨させ、絶望させた。これは、程度の差こそあれ、内モンゴルや朝鮮族の共同社会にも同じような過程が押し付けられたのであ る。これが、根深い民族的憎悪の源なのであり、強圧的な制圧措置や一時的な宣撫工作では、根本的解決が不可能であるどころか、いっそうの矛盾を広げるだけ なのである。
共産主義政権の“鬼門”、少数民族問題を
中国は乗り越えられるのか
チベット族の民族騒乱が一段落したと思われた矢先、今度は四川省で大地震が発生し、数万人が死亡する大惨事になった。現在も救出活動が続けられているが、 北京政府は騒乱が起きたチベット族居住地域と被災地が重なっていることに大きな不安を感じ、救出よりも警備部隊の派遣を先行させて地元住民の不興を買っ た。併せて、海外からの救援部隊の派遣をなかなか受け入れず、被災後4日にしてようやく日本や台湾、ロシアからの国際救援部隊を受け入れた。これらの経過 は、災害に乗じたさらなるチベット族騒乱の発生を北京政府が懸念していたことを如実に示している。
災害救援に追われている裏で、チベット亡命政府のダライ・ラマ14世側代理人と中国共産党政府の非公式折衝(対話)が中国国内で続けられている。「独立で ない自治権の拡大」をもとめるダライ・ラマ側に対し、どのような姿勢を胡錦濤政権が示すか、動向が注目される。その一方で、新疆ウイグルでは、「テロ勢力 に対する闘争」を前面に自治権拡大を求める勢力への徹底した弾圧が続き、周辺地域を緊張させている(すでに中国領内ウイグル地区から国外に脱出したウイグ ル人やカザフ人は、これまでに150万人以上にのぼるとも言われている。これら亡命者を統括する組織として有力なものに、ドイツに本部を置く世界ウイグル 会議があり現在の代表はかつて「中国十大富豪」の一人であり中央政治協商会議(日本の参議院にあたる)の委員であったラビア・カーディル女史がつとめてい る。一方で、テロ・武装闘争路線をとるイスラム原理主義にもつながる抵抗勢力が別に存在するが、中国共産党政府は平和的な世論に訴える世界ウイグル会議と 後者を敢えて同一視し、一切の対話に応じようとはしていない)。
1989年の「ベルリンの 壁」崩壊以来のドミノ現象で社会主義国が次々に崩壊し、91年には最大最古の社会主義大国だったソ連まで崩壊した。そのあと、1990年代から今日まで、 旧社会主義圏内では民族紛争が頻発し、各地で血で血を洗うような陰惨な紛争が続き、イスラム共和国としてロシア領からの完全独立を求めてきたチェチェンな どでは現在もくすぶっている。かつて「諸民族の平等」をうたった共産主義の教義を掲げた社会主義各国の実態は、「諸民族の牢獄」に等しいものであったとい う事実が、白日の下にさらされたのである。各社会主義国とも、共産党政権の中枢を担った指導者たちは、多数派の大民族の立場を優先した「先進民族主義」に 立つ政策を進めてきて、少数民族を圧迫したのである(コーカサスのグルジア人であったソ連の独裁者スターリンが、「大ロシア主義」を公然と唱えてロシア民 族優先策をとり、ソ連国内のチェチェン人や沿ボルガ・ドイツ人、タタール人や朝鮮人、さらには第二次世界大戦初期の段階で併合したバルト三国人民を抑圧 し、乱暴な民族全体に対する強制移住策をとったことは、強大な共産主義独裁権力と大民族主義が結合した病巣の深さを示すものである)。
1950 年代末期の「雪解け」による個人独裁否定と一定の民主化を迎えたスターリン時代以後の共産主義政権にとって、少数民族問題は“鬼門”であり続けた。今日、 資本主義的な市場経済へひた走るが故に、一党独裁体制の矛盾を深めている中国共産党政権にとっても、経済的・社会的な格差拡大の力もあいまって東欧諸国よ りも10年以上遅れて民族問題が大きくクローズアップされるところとなったのである。
かつて、科学的な共産主義の祖としてマルクスとともに19世紀末までに今日の共産主義の指導原理の基礎を纏め上げた先人エンゲルスは、民族自決権の尊重が共産主義に不可分であるべきものとして、次のように述べた。
「われわれは、他人(他民族)に幸せを押し付けることはできない」
「革命の輸出は、行ってはならない」
このエンゲルスの結論は、当時、植民地を世界中で擁していた英国などの西欧先進諸国で社会主義革命が起こった場合、植民地地域にはどのような形で社会主義 体制への移行が行われるか(植民地宗主国の統治を通じて“社会主義化”されるか、それとも植民地から独立してそれぞれの民族固有の歩みの中で社会主義をめ ざした進歩の道を歩んでいくかという二つの道について、当時の社会主義者の間で論争が行われた)を詳細に検討し、「それぞれの地域で政治・経済体制を決定 するのは、固有の文化と歴史、言語と慣習を持つ民族固有の権利である」とする「民族自決権」を確認してのものだったのである。この「民族自決権」の考え方 は、以後、資本主義的な立場のリベラリストの間にも広がり、また西欧列強の植民地化に抗するアジアを中心とした各地の民族運動の指導理論にも採り入れられ ていったのである。
以上のように、個別民族の利益を追求する立場から離れた共産主義理論 は、「民族自決権」を社会体制選択の視点から浮き彫りにし、植民地化に抵抗するアジア諸民族に自らの国家を打ち立てるための力強い理論的基礎を与える上 で、大きな貢献をしたのだ。残念ながら、実際に政権についた場合の各国の共産党は、多数派民族を「指導民族」として優遇し、少数民族を圧迫する実績を積み 重ね、結果として共産主義理論と実践の命脈を20世紀いっぱいで絶つことになったのだが。
1950年代から「革命の輸出」を軍事力で強行してきたツケが、今日、中国共産党政府に押し寄せてきている。これを乗り越える道は、中国共産党指導者たち が先人の遺訓に立ち返り、冷厳に歴史と世界の中での自分たちの立場を見つめなおし、少数民族問題解決に向けて最大限の対話と民族的自尊心・文化の尊重へ大 きく意識と政策を転換することではないだろうか。これなくして、共産主義政権の急速な崩壊は避けがたいものであるのは、歴史の教えるところである。
アジアの諸民族が、互いの歴史と文化、宗教、慣習、言語と生活圏を尊重し、真に互恵の立場での対話を土台に共通の利益に立って地域の安定と繁栄を追求する大アジア主義の潮流が歴史の中で長く掲げてきた主張と原理が、いまほど切実になっている時はない。●●コメント●●
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