2008-06-20

中日新聞 トヨタ記事

:::引用:::
希望見えぬ「世界一」 トヨタの足元<1>

2008年5月11日

 「どうして、うちの主人がクビになるんですか」

 一家の大黒柱の危機を知り、怒鳴り込んできたのはその妻と娘だった。

 名古屋市近郊にある古びた工場。床がきしむ事務室で、社長は“鬼”を演じるしかなかった。「情に流されたら会社はやっていけない」。自身もまた、追い詰められていた。

 まだ昭和だったころ、亡くなった父親の後を若くして継いだ。

 星くずほどもある「トヨタ系」企業の1つ。100人に満たない従業員には、子どものころから顔見知りの工員も多い。「みんな家族みたいに感じていた」。従業員たちを守り抜こうと思ってきた。

 状況が変わったのは2000年。その夏、「国際競争力ナンバーワン」を目指すトヨタのコスト削減大作戦「CCC21」が始まり、3割削減という非情な「お願い」が、末端の下請けまで駆け降りてきた。

 「できなきゃ仕事が切られるかもしれない。実態は強制ですよ。達成するしかなかった」と社長は言う。

 3割という過酷な削減に“聖域”はあり得ない。

 その年から、ざっと2割の従業員に辞めてもらった。穴埋めの人手に外国人を充て、人件費を抑えた。

 妻子が乗り込んできたのは定年間際だった番頭格の社員。職人肌で、外国人の採用に「言葉も分からないのに仕事を教えようがない」と頑固一徹に反対した。品質とコストを考えたぎりぎりの選択を受け入れない彼に、最後は「辞めてくれ」と言うしかなかった。

 彼はもちろん、妻も娘も会社を「家族」だと感じていたのだろう。

 「だから乗り込んでもきた。でも、もう家族感覚じゃ経営は成り立たない。会社を存続できるかどうか、が迫られた」

 1999年当時、日経連(現日本経団連)会長だったトヨタの奥田碩(ひろし)相談役は「従業員をクビにする経営者は自ら腹を切れ」と言い、安易なリストラを戒めている。

 事実、トヨタは戦後の一時期を除き、リストラを1度もしないまま、営業利益が2年連続で2兆円を超え、「勝ち組」の代表になった。

 ただ、その下請けの社長は「トヨタは足元が見えているのか」と思う。「2兆円」も「安定雇用」も、無数にある町工場の犠牲がその土台にある。「腹を切れ」は安住の地にいるトップのそらごとに聞こえるのだ。

 利益を吸い尽くされた末端の町工場に、投資に回す余力はない。次代を考えても「まったく希望が見えないんですよ」。生活を切り詰めても、生命保険料の支払いだけは欠かしたことがないという。

 「もしもの時には、そのカネで会社を清算してほしいと思う」

 社長は真顔だった。

   ×  ×

 トヨタ自動車は不思議な会社だ。自動車業界で“世界一”の利益を稼ぎ出すグローバル社会の「勝ち組」でありながら、経営方針は人の“和”を尊ぶ「日本型」の見本とされる。「結いの心」第3部では、トヨタの今昔を舞台に、企業社会の中の「競争」と「結い」のせめぎ合い、そのひずみに目を向けたい。

 【CCC21】 「Construction of Cost Competitiveness 21」(21世紀コスト競争力の構築)の略。トヨタ自動車が2000年7月から始めた主要部品のコスト削減方針。開始から3年で1兆円近い削減を実現したとされる半面、一部で品質管理が手薄になり、04年に過去最高の約190万台を記録したリコール増加の一因との指摘もある。

「身の丈見失うな」 トヨタの足元<2>

2008年5月12日

 トヨタの恐れる「おごり」とはこのことか。

 数年前、自動車部品の梱包(こんぽう)用段ボールなどをつくる「中央紙器工業」(愛知県春日町)の本社応接室。当時、社長の合原美治(ごうはらよしはる)(66)は、目の前の課長クラスと見える男が「トヨタマン」だとは信じたくなかった。

 ソファにどっかと座り、足を組んでいる。「本社で決まったんでぇ、これだけお願いします」。無造作に置いた資料には、たやすくはないコスト削減額が示されていた。

 「(下請け)業者の立場で承ります」。合原はいったん頭を低く下げた。しかし、向き直って言ったせりふに怒気を込めた。

 「OBとして言わせてもらう。その態度は何だっ。出直して来い」

 目を丸くして部屋を飛び出した彼は数日後、すっかり身を小さくしてやって来た。

 合原も元トヨタマンだ。入社は1966(昭和41)年。ちょうどトヨタを代表する車種「カローラ」が発売され、世界企業への足掛かりを築こうとしていたころ。当時の上司が口をすっぱくして言ったことが忘れられない。

 「(下請けの)社長がぺこぺこするのは、君らが偉いんじゃない。トヨタのカンバンがあるからだ」

 下請けに接待された場合は、料理代を見積もり「分不相応だったら、次から断れ」と上司。おごりはないか、常に身の丈を測る、それが「トヨタ流」のはずだった。

 合原自身、肝に銘じ、後輩にも伝えた。

 下請けの役員を本社へ呼び出し、見下すように足を組んでいた部下の、その足をけり飛ばしたこともある。

 「一生懸命、額に汗してきた年配の方だよ。その人たちのおかげでわれわれがあるんだ」

 中央紙器への社長就任を打診されたのは97年春。当時、海外営業1部の部長だった合原は、南米ペルーでの日本大使公邸人質事件で、トヨタの現地対策本部長を務めていた。「仲間が危ない状況にいる間は」と、事件解決まで就任を遅らせてもらった。

 就任前、トップクラスの役員が酒席を設けてくれた。「わが社は、わが社はって言うやつはバカだ」。自画自賛はするな、という教え。トヨタらしい餞別(せんべつ)だった。

 同じコスト削減でも、かつては下請けの実情を把握して接したものだ。

 「大きくなりすぎて、小さなところを見る余裕がなくなってるのかなぁ」

 今春、新たに2000人ほどのトヨタマンが生まれた。「自分の足元を見失ってくれるな」。そう願わずにはいられない。 =文中敬称略

誰のための削減か トヨタの足元<3>

2008年5月13日

 「サインはしません」

 電話の向こうで、担当者が絶句していた。

 トヨタ系ではすっかり恒例となっている春と秋のコスト削減の要望。「納得済み」だと確認させたいのか、書類には了承のサイン欄がある。

 一昨年春、主に自動車部品をつくる下請け企業の50代の社長は、トヨタ系の上位メーカーからの求めに初めて、署名を拒んだ。杞憂(きゆう)に終わりはしたが、取引中止も「覚悟の上」だったという。

 背中を押したのは「モノづくりの誇り」だった。

 20代の半ば。人生を見失っていた。社会人野球の選手だったが、プロになる夢をあきらめ、野球で入った企業も退社。「何をしていいか分からなかった」

 ある夜、居酒屋でたまたま隣に座った客と話が弾んだ。「ええ体、しとるやないか。いっぺん遊びにこんか」。トヨタ系の、小さな工場を営む社長だった。

 ギュイーンという研磨機の音と、油のにおい。壁にかかった2次元の図面が、立体になり、手に触れられる。「すげえ…」。その場で「修業させてください」と頭を下げた。

 賃金は以前の会社の半分で、仕事は倍。1日10時間の残業もいとわずに働き続けたかいあって、3年で独立にこぎ着けた。

 トタンぶき、ノコギリ屋根の12坪(約40平方メートル)の工場兼倉庫。部下は妊娠中の「嫁さん」ひとり。やがて、生まれた子どものゆりかごが片隅に陣取った。

 社名の看板は、小さな機械を使い自ら刻んだ。従業員70人、年商10億を超えるまで成長した今も、その機械は本社工場に鎮座している。

 社内からも「古くさい」と言われるが、忘れたくない。

 「情とか、人情とか、そういうのがいいモノをつくるんだ」

 たとえ、利益が出なくても下請け仲間から「何とかしてくれ」と頼まれたら、段ボールのゴザを敷き、泊まり込みで仕上げた。逆に、そんな仲間が「あんたのためなら」と注文を出し、苦境を救ってくれたこともある。

 自ら設計し、つくり上げてきた部品は、一つ一つの価格にもなぜそうなのか「ストーリーがある」。毎度毎度、決まりごとのように求められるコスト削減。そこには、モノづくりの現場に息づく「物語」や「哲学」がない。

 「トヨタさんのおかげで大きくなれた」。経営者として、反論する言葉はない。ただ「いったい何のため、誰のための削減なのか」。職人として、それを知りたいと思う。

町工場の事情がある トヨタの足元<4>

2008年5月14日

 「ここまで言われなくちゃならないのか」。あるトヨタ系部品メーカーの40代の社長が歯がみをしたのは数年前のこと。

 愛知県尾張地方の工場。トヨタの仕入れ担当者がストップウオッチ片手に乗り込んできた。

 コスト削減にちゃんと応えられるかどうかのチェック。眼鏡にかなわなければ「カイゼン」を求められる。

 「どうしてウソつくんだ」

 入社10年余りの中堅どころといったその担当者は、ある工程のタイムを計り、怒った。事前に出していた申告は「40秒」。“トヨタウオッチ”では「30秒」だった。

 「でも」と社長。

 工場の工程は一つではない。ミスが起きたら自分の仕事が遅れても皆で助け合うものだ。「少しの余裕もないんじゃ、他人のことなんて構ってられない。どんな場合でも品質の高いモノをつくろうって、必死に割り出した数字を『ウソ』だと切り捨てるのか…」

 別の経営者はトヨタのチェックで「仕入れ数が多すぎる」と注意された。数十個単位で外注していた小さな部品。急に言われても、すでに発注先がつくってしまっている。

 頭をよぎったのは、やはり町工場のそこの「おやじさん」の顔。「小さくて苦しいとき、助けてくれた。そう簡単に右から左にはいかないんですよ」。カネや数字で測れない、町工場なりの事情がある。「つくり過ぎた」分の支払いは結局、自分でかぶった。

 確かにトヨタ系にいることのメリットは大きい。「銀行が『ぜひ、融資を』と言ってくる」「新車開発にかかわれたら、数年先までの仕事が埋まる」。経営者として「安定」は何にも替え難い。

 だが、名古屋市内の下請けのトップが言い切る。

 「カネだけのつながり。トヨタのために、なんて気持ちは、今はこれっぽっちもない」

 「乾いたタオルでも知恵を出せば水が出る」。1970年代、オイルショックのころの豊田英二(現最高顧問)のこの言葉がトヨタではカイゼンの象徴として語り継がれる。ただ、これには前置きがある。「機械的に考えるのではない」と。

 本来、モノづくりへの思いや知恵を促すための「カイゼン」が“効率”を測るためだけのもの差しになっていないか。

 「言われた通りのモノを言われた通りの価格で、言われた通りにつくり続ける。トヨタ系では、そんな会社しか生き残れない」

 そう語る下請けの経営者は最近、自家用車をトヨタから他のメーカーへ替えた。モノづくりの会社の経営者として「ささやかな抵抗」だという。

努力だけじゃ勝てぬ トヨタの足元<5>

2008年5月15日

 拍手の波が夕立の音のように響いた。

 先月22日、愛知県安城市にあるトヨタ系大手一次メーカーの本社ホール。傘下の400社ほどのトップが顔をそろえていた。

 その1人、部品メーカー「エイベックス」(名古屋市)社長の加藤明彦(61)は壇上で居並ぶ「仲間」の拍手を浴びながら、しみじみ感じていた。

 「みんなの努力が報われたなぁ」

 その日は傘下でコスト削減や品質管理で高い成果を挙げた企業の表彰式。同社はすべてに優れた「総合優秀賞」を受賞した。

 「うちはアレが始まってから成長してきた会社なんです」

 アレとは「CCC21」。トヨタが2000年夏に始め、3年間で1兆円近くに及んだコスト削減方針のこと。多くの下請けが悲鳴を上げたが、加藤は「チャンスだった」と振り返る。

 1984年、父親の後を継いで社長になったが当初は「オレが、オレが」と意気込みばかりが空回り。「『坊ちゃん』の言うことなんて現場の職人さんは耳を貸してくれなかった」。92年、「加藤精機」からの社名変更。加藤の名を外し、「みんなで一緒にがんばりたい」と全社員の前で頭を下げた。

 大幅削減をのめば赤字になる可能性が高かった。

 加藤を先頭に、社員一丸となり、工程の見直しを進め、ムダの排除や品質向上を図った。「赤字覚悟」のはずが初年度からわずかだが黒字が出た。新商品の開発にも成功し、弾みがついた。この5月期の売上高は01年の9億円から3倍増に達する見通しだ。

 「前向きにコスト削減を受け入れたことで、企業体質を向上できた」

 「勝ち組」にとどまったカギを「人の和」と加藤は言う。

 社長になって以来、一人一人、自ら面接して採用。次代の幹部を約束し、大手の内定をけって入社してもらった逸材もいる。

 ただ、トヨタ系と言っても、2万から3万点に及ぶ部品の数だけ、傘下の企業があるとされる。

 大卒の技術者はもちろん、何年も新たな人手を雇うことすらできず「努力」しようがない町工場も数多い。新技術の開発に必要な人材を確保できる条件を持っている下請け会社は、むしろ少数派だ。

 「トヨタ系の中でも『勝ち組』と『負け組』の選別が始まっている」。広い、広いすそ野からはそんな声が聞こえてくる。

  =文中敬称略

「つぶれても仕方ない」 トヨタの足元<6>

2008年5月16日

 「えっ…」。トヨタ系の大手企業で仕入れ担当をしていた四十代の男性社員は思わず、声を失った。

 コスト削減を依頼しようとしたある下請け業者が「見積もりの仕方が分からない」と口にしたからだ。

 父ちゃん、母ちゃん、家族でほそぼそと経営する、いわゆる「三ちゃん」工場のひとつ。誰も帳簿の付け方すら知らなかった。それでは削減を求めようもない。どうするか。

 「こっちで見積もるんです。うちは中間業者。高めに出したら、トヨタから『この値段でできる』って文句がくる。温情をかける余裕なんてない」

 売上高が兆単位の巨大企業も、三ちゃん工場もあるのがトヨタ系。男性社員は言う。

 「小さいところを訪ねる場合、以前は、これぐらいならつぶれないかなぁって額に見積もった」

 絞りつつもつぶさず伸ばす-が、かつては下請け管理のコツだった。

 「今は、コスト削減についてこられないなら、つぶれても仕方ないって感じ。国際競争が激しくなって、育てる価値があるかどうか、下請けを選ぶようになってきた」

 一兆円近くものコスト削減活動「CCC21」が始まった二〇〇〇年七月。それから間もなく、中小の下請け各社を震え上がらせる“事件”が起きた。

 この年九月の東海豪雨。多くの工場が被害に遭ったが、トヨタの対応は素早かった。豪雨の翌日には、一次下請けの大手企業も動員して、被害が出た各社へ人手を手配し、水に漬かった機械の乾燥や修理を進めたという。

 間もなく、一つの出来事が系列の関係者を驚かせた。

 ある町工場が浸水。復旧に元請けの会社とトヨタから大挙して従業員が訪れ、丸一日で工場を復旧してみせた。経営者は涙ながらに喜んだ、と伝えられる。しかし、ほどなく送られてきた請求書に凍り付いたという。

 取材に経営者は口をつぐむが、請求額はウン千万円に上った。

 「困ったときはお互いさまって考えは無くなっちゃったんですかねぇ」

 “事件”を知る経営者たちは、こうも言う。「トヨタじゃない。あの元請け企業が勝手にやったこと」。ただ、トヨタ系の徹底的な効率主義、元請けと下請けのドライな最近の関係がもたらした出来事を、こうも見る。

 「あすはわが身かもしれない」

号令一下、政治まで トヨタの足元<7>

2008年5月17日

 名古屋市近郊のトヨタ系部品メーカー。

 「これで3社目だわ」。40代の若手社長は一人愚痴った。取引先の上位メーカーからかかってきた電話の内容はどれも同じ。

 「今度の選挙は自民党をよろしく」

 まるで命令口調。「分かりました」と受話器を置くと、社長は3回目のため息をついた。「はあっ」

 2005(平成17)年夏、小泉純一郎元首相が声高に「郵政民営化」を問うた総選挙。トヨタは当時、「財界総理」と呼ばれる経団連会長だった会長奥田碩(ひろし)(75)=現相談役=の号令の下、グループ挙げて自民党支援に走った。

 愛知県三河地方の一次メーカーの役員はトヨタ本社から「何回、行ったかが大事」と聞かされ、仕事中、幾度も地元の選挙事務所へ足を運んだ。大抵、顔見知りの下請け役員もいて「お互い、大変ですね」と苦笑い。

 先の若手社長も地元候補の後援会員集めを求められ、役員たちは妻子らの名前まで名簿に書いた。だが、当たり前のように上から降ってくる「指示」が、内心不思議だった。

 「トヨタってこんな会社だったっけ」

 トヨタは元来、政治とは一定の距離を保ってきた。創業者の豊田喜一郎を支え、トヨタの大番頭と呼ばれた石田退三は「自分の城は自分で守れ」と自主独立を説き、政治どころか財界活動にも慎重だった。

 長年、東京本社の広報担当として政界との付き合いも深かった神尾隆(65)は、郵政選挙について「財界総理のいる会社として特殊なケース」と、政権与党へのらしからぬ肩入れを説明する。

 しかし、票集めの駒にされた違和感はぬぐいがたく残る。

 「昔のトヨタなら投票先を命令するなんて考えられない。何でも命令できると思ってるんですかねぇ」

 最近、社長の会社は上位メーカーの指示通りに工程を変更して、不良品を出した。「10年ぐらい前なら、どうして出たのか一緒に話し合って改善策を見つけたもの」

 それが今では、社長の説明を聞こうともせず、弁償を認めるまで“口撃”され続けたという。ちょうど口ぶりはあの選挙のときのよう。

 「お宅の責任でよろしく」

 選挙で自分は指示された候補に投票したが、社員にまでは頼めなかった。

 「コストだけでも精いっぱいなのに、従業員にまで思想信条を押しつけられたくないですから」

  =文中敬称略

鉄くずまで削られる トヨタの足元<8>

2008年5月18日

 あこがれの大人たちがいた。

 名古屋でトヨタ系の町工場を営む40代の社長にとっては、たとえば元中日ドラゴンズの星野仙一投手(現五輪代表監督)。1974(昭和49)年、セ・リーグ優勝を決めたマウンドの勇姿は今も目に焼きついている。

 工場の先代だった「おやじ」が、たまにキャッチボールしてくれるのが「うれしかったなぁ」。大黒柱のおやじが“ヒーロー”だったし「あの人たち」もそうだった。

 トラックに乗り、おやじとよく行った上位メーカーの工場。「職人さんたちが中から出てきて『元気か』『よく来たな』って声をかけてくれるんですよ」と懐かしむ。頭をなでる分厚い手と野太い声。「男らしいなぁ、ってね」

 随分と大きく、きれいになったその工場で先日、幹部社員にこんなことを言われた。

 「小さいところはつき合いづらいから早く大きくなって」

 ちょっときつめの「励まし」だと信じようとしたが、その後、自分の工場に来た若手社員が口にした“本音”はこう。「知れた発注量の取引先に人手を割かれるなんて、もったいない」

 10年ほど前、病気で倒れたおやじに代わり「社長」になったとき、おやじは言った。上位メーカーの名を挙げて「一緒に大きくなるんだ。ついていけば大丈夫だから」と。

 「(下請けの)仕事が安すぎるんじゃないか」と不満をぶつけた時には、笑って諭されたものだ。「お客さん(上位メーカー)がもうかって大きくなれば仕事も安定する。うちは一生懸命働けばいい」

 今も工場には機械を冷やすエアコンがあるだけで、人間用はない。

 以前なら作業で余った鉄くずをスクラップ屋に売ることもできたが、厳しいコスト削減で「鉄くずの量まで把握されて、その分も削減対象になっちゃう」という。

 昨年、全体の売り上げは3割増だったが、収支は赤字だった。

 先代のころ、上位メーカーと下請けとの関係はまさに「親子」だったと思う。たまにむちゃなことも言われるけれど、全部「自分のため」だと信じられた。しかし今は「もうけもほとんど吸い上げられて。親子だなんて、とても、とても…」。

 トヨタ系も、世の中全体も変わってしまった。そんな今の時流が、社長にはたまらなく「寂しい」。

●●コメント●●

0 件のコメント: