2009-03-30

中国内陸部に「ローマ人村」 2000年前の遠征軍の子孫 観光で村おこし

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 中国西部の甘粛省永昌県郊外に、くぼんだ目に高い鼻、赤みがかった肌をもつ人々が暮らしている。およそ2000年前、中央アジアに遠征したローマ軍兵士たちの子孫とされる。彼らは今、「ローマ人村」として観光業に力を入れるなど、“村おこし”に躍起になっている。(中国甘粛省永昌県、矢板明夫)

 甘粛省の省都、蘭州から北へ自動車で5時間のところに、永昌県はある。人口約25万人のこの町の中心部に、古代ローマ人と古代中国人の石像が立つ。

 「ローマ人がこの地にやって来たことを記念するために1994年に建てたもので、今では永昌県のシンボルとなっている」と現地の観光ガイドは誇らしげに説明する。中国人像も一緒に建てられたのは、「他民族の軍人も受け入れ、一緒に生活する中華民族の包容力を世界中のみなさんに知ってもらいたいからだ」という。

 石像のある広場から北の郊外へ、舗装されていない砂道を走ること30分。前漢王朝がローマ人に与えた「驪●(革へんに干)城」の遺跡にたどりついた。城壁の一部が残るだけだが、1989年に蘭州大学の陳正義教授らの研究グループによって発見されたという。

 城名の「驪●」は中国古代の史料にたびたび登場する言葉で、古代ローマの別名とされる。中国語で「リーチエン」と発音し、ローマ軍団を意味するラテン語の「legion」が語源であることが、その後の研究で明らかになった。 古代ローマの史料などによると、紀元前53年、ローマの執政官クラッススが、約4万人の軍を率いて中央アジアのパルティア(現在のイラン周辺)に遠征し戦死。その部下約6000人が敵軍の包囲を突破して東へ逃れ、消息を絶った。

 中国の「漢書陳湯伝」によると、それから17年後の紀元前36年、前漢王朝の国境警備軍が少数民族を討伐する途中、ローマ軍の装備した部隊と遭遇している。驪●城の遺跡を発見した陳教授らは、中国側とローマ側の史料を付き合わせ、逃れたローマ軍団が中国に住み着いたとの学説を発表した。逃れた部隊は漢に帰順し、傭兵(ようへい)部隊として国境防衛の任務に就き、居住地として驪●城を与えられたのだという。

 当初、中国の考古学者の間では、この学説に否定的な見解が多かったが、2003年、驪●城の遺跡付近で前漢時代の古墳群が発見されて流れが変わった。身長が180センチ前後あったとみられる、欧州人に似た骨格をした遺骨など約100体が確認されたのだ。

 陳教授の学説を証明するもう一つの有力証拠は現地人の顔立ちだ。驪●城の遺跡に近い、者来塞村にはローマ人の子孫が最も集中しているといわれる。約300人が住んでいるが、欧州人の顔立ちをしている住民が多い。両親はともにアジア人の顔をしているのに、青い目をした子供が生まれるケースもあるという。 生活習慣面でも周辺の村との違いがいくつかある。死者を埋葬する際、周りの村は頭部を北の方角に向けるのに対し、この村だけは西に向ける。欧州への「望郷の念」からきた習慣ではないかと推測する人もいる。パンの上に野菜などを載せたピザのような食べ物を正月に食べる習慣もあり、イタリア料理を想起させる。

 最近、国内外のメディアの報道で村の知名度が上がり、住民たちは「ローマ人村」を売りに、村おこしに懸命だ。村の中心部に古代ローマ宮殿を模した建物を作り、観光客やメディアが取材に訪れると、村の男性たちがローマ軍団の衣装を着て、宮殿の前で写真を撮らせるサービスも始めている。



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