2007-08-15

消えない戦争の傷 千葉の現場から<下> 中国残留日本人の力になりたい

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消えない戦争の傷 千葉の現場から<下> 中国残留日本人の力になりたい

永住帰国した中国残留日本人やその家族を世話する「自立指導員」という資格がある。奥村正雄さん(76)=千葉市花見川区=は、指導員になって十 五年以上。「中国語への興味から始めた仕事。帰国者を通して中国の生活や文化に接することができるのが魅力だね」と話すが、続けるうちに、日本社会が抱え る問題も見えてきたという。

奥村さんは新潟県生まれ。地元の旧制中学在学中に終戦を迎え、二十歳で上京。週刊誌のフリーライターなどをやりながら、家業の都合で東京と新潟を往復していた。中国とはかかわりのない日々を過ごしていた。

 一九七二年に転機が訪れる。この年、田中角栄首相(当時)が日中国交正常化を実現。日本中でにわかに中国語学習熱が高まり、新潟市の公民館でも中 国語教室が開設された。特に中国語に関心があったわけではないが、当時は英語以外の外国語を学べる機会は珍しく、何となく参加するうちにのめり込んでいっ た。

 ちょうど残留孤児らの存在がマスコミでクローズアップされ始めた時期。ある日の新聞で、同県小千谷市に一時帰国した残留孤児の二人兄弟がいること を知る。覚えたての中国語を試してみたくて、友人と一緒に兄弟を訪問。複雑な会話はできなかったが、何度も会ううちに親しくなった。

 あるとき、弟の方から身元引受人になってほしいと頼まれた。日本帰国を望んでいるが、(日本にいる)親族からは反対されているという。だが、経済的な理由で断らざるを得なかった。「自分を頼ってきたのに、力になってあげられなかった」。今でも忸怩(じくじ)たる思いだ。

新潟ではまた、残留婦人の帰国者と中国人の夫のために、ギョーザ店の開店資金を集めたこともある。ともに中国では教師だったインテリ夫婦で、日本で生活保護を受けるのを潔しとせず、中国に戻りたがっていた。

 そこで中国語の勉強仲間たちと一計を案じ、得意料理の水ギョーザの店を開くことを提案。地元紙で募った支援金を元手に実現させた。店は順調に滑り 出したものの、次第に飽きられ客足は遠のいてしまう。それでいったんは中国に戻ったが、子供が日本に住むのを強く希望したため再帰国。「新潟には不義理を したから」と、他県で暮らすことになったという。

奥村さんが千葉市に引っ越したのは八九年ごろ。間もなく自立指導員の資格を取り、永住帰国者の世話を始めた。これまで担当したのは三十世帯以上。 一世帯について派遣期間は原則三年以内だが、期間を過ぎても頼ってくる帰国者は多い。ほかに頼るべき人がいないからだ。後から自費で帰国した親類が住む住 宅のあっせんを依頼されることもあるが、受け入れてくれる民間アパートは多くない。日本語が分からないまま日本の学校に編入させられ、ストレスで入院する 子供も。露骨な差別に遭うこともある。「今でも彼らは、この社会の厄介者扱いなんだよね」と嘆く。

 小千谷市の兄弟との出会いからすでに三十年余り。たまたま飛び込んだ世界が、いつの間にかライフワークになっていた。「足が抜けなくなっちゃって。自分の時間はなくなっちゃったけど、やらなきゃよかったなんて思わない」 (宮尾幹成)

<メモ>中国残留日本人 戦後、旧満州に残され、中国人の養親に引き取られた幼児(残留孤児)や中国人男性と結婚した女性(残留婦人)らの総称。 1980年代から帰国が本格化し、これまでに全国で6300人以上(厚生労働省調べ)が永住帰国を果たしたが、不自由な日本語や生活習慣の違いから、日本 社会で暮らす上でさまざまな困難に直面するケースがほとんど。

 自立指導員 永住帰国者世帯が日本社会に定着できるよう、生活上の世話をする国の資格。定期的に訪問して相談に応じるほか、自治体や福祉事務所へ の仲介、日本語の指導などを行う。派遣期間は従来3年以内とされていたが、今年から4年目以降も状況に応じて派遣できるようになった。現在、県内に15人 いる。


●●コメント●●

日本語や生活の補助を行う自立指導員の取り組み。こういった人たちが残留孤児の自立をバックアップしている。

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