2008-08-01

中国人が日本で買い漁っているもの

:::引用:::
会場に入ると、見慣れない光景が広がっていた。入口付近に10人以上の男性が固まり、ものすごくデカい声で言い合っている。「何でぃ何でぃ、喧嘩 かぃ」と腕をまくってみたが、みな興奮しているがバカ笑いしている人もいたりして、揉め事という風でもない。近寄って聞くと、音声は中国語のようである。

 場所は東京美術倶楽部。「正札市」という、新古美術品を1万点も集めた年に2回の大展示即売会での光景である。知り合いの美術商に「何ですか、あれは」 と聞くと、「何だかこの会を目あてにしたツアーの参加者らしいですよ。いやぁ、大勢来てくださるのはいいんですけど、手癖の悪い人も混ざっちゃっているみ たいで」という。何でも、会場での盗難事件がこのところ、すごい勢いで増えているのだという。

逆転

 10年くらい前まで、日本でよく見かける中国人の美術関係の業者といえば、いわゆる「担ぎ屋」という人たちがほとんどだった。どんな手段を使うの かわからないが、母国で大量に美術品を仕入れ、無事に税関をすり抜け、日本に持ち込む。それを担いで古美術商などを回り、「卸売り」するのである。メイン は贋物なのだが、「わざわざ仕入れるより掘ってきた方が安い」ということか、かつてはビックリするような発掘の名品が混じっていたりすることもあったらし い。

 美術品の価格は需給バランスで決まる。そんな人が増え供給過剰になり、さらには贋物が市場にあふれた結果、日本市場における中国美術品の価格は暴 落した。それを受けて仕入れ原価を抑えたためか、担ぎ出されてくる美術品の質も下がり、粗悪な贋物が増え、さらに市況は悪化していく。そんな負のスパイラ ルが続いていると思ったら、4~5年くらい前から急に、日本に古くから伝来している中国美術品の里帰りが始まったのである。今や、日本で見かける中国人美 術商の大多数が担ぎ屋ではなくバイヤー、つまりは買い出し屋である。

 おかげで、中国の古い漆芸品、書画、磁器などがものすごく値上がりしている。「10年前は数万円で取り引きされていたものが、中国人バイヤーに数 百万で売れた。それでビックリしていたら、それが上海でオークションにかけられて、数千万の値段がついたと聞いたときは腰を抜かした」などという景気のい い話をやたらよく聞く。この前まで日本の古美術品をもっぱら扱っていた国内の業者さんが、にわかに「中国美術専門店」に看板替えするケースも珍しくないら しい。現代中国製の贋物は今でもどんどん入ってくる。そして、時代を超えて賞玩されてきた価値ある本物は、どんどん日本から中国に流出しているのである。

対照

 この激変ぶりは、もちろん中国における富裕層の購買力が飛躍的に上がったことを示している。そして、この現象には先例があった。韓国である。

 朝鮮半島の美術品、特に李氏朝鮮(李朝)時代に焼かれた陶磁器類を日本人は桃山の昔から愛で珍蔵してきた。その価格が、1990年代に急騰したのであ る。韓国財閥の幹部などが、熱心に買い戻しをしていたのだという。この業界における「李朝ブーム」は、1997年のアジア通貨危機まで続いた。

 そして、今回の中国である。その日本における「埋蔵量」と中国における富裕層の厚み、経済成長の規模などを考え合わせれば、今回のブームはよほど長期に渡る、すさまじいものになるのかもしれない。

 そんなことを考えつつ商品を眺めていると別の知り合いが近寄ってきて、ため息混じりにこうこぼしていた。「いやー、すごく安くなったでしょう」。 茶道具など日本の美術品の話である。それでも一級品はまだいい。いわゆる「二番手」という、それに準じる作品などは、新しいもの古いものを問わず、悲惨な ほど下がっているのだと彼はぼやく。つまり少数の、筋金入りのコレクターは今でも買い続けている。ところが新たにコレクションを始める人は少なく、市場全 体としては縮小しているということなのだろうか。

 そういえば、著名な東洋文化研究家であるアレックス・カー氏が、こんなことを言っておられた。「日本というのは本当に不思議な国です。経済的に豊 かになればなるほど美術品の値段が下がるのですから。世界の常識は逆。豊かになれば美術品の値段は上がるものです。特に古美術品は、数が限られているから 目立って高くなる。ところが、日本だけが世界の常識とは違う。これだけ高い水準の芸術や文化を生み出した歴史をもつ国が、どうしてこうなってしまうので しょうか。理解できない」。

必要

 アレックスは日本の状況を「工業モード」と呼ぶ。日本は蛍光灯、プラスチック、看板、コンクリート、プレハブだらけの工業モードの国になってし まったと。「国の予算のうち、土木・建築が占める割合は、ヨーロッパが6~7%、アメリカが8%ですが、日本は40~50%。コンクリートの使用量を国土 の単位面積あたりで比較すると、日本はアメリカの33倍。日本は世界のスタンダードとはケタ違いの異質さなのです」。経済的に豊かになったから自然や文化 の保護に力を入れるのではなく、どんどん土木工事を増やし美しい山河をコンクリートで固める。美しい伝統的な街並みを壊し、周囲の景観とはまったく溶け合 わない施設を作る。こうして、この国にあった文化・伝統を台無しにしてしまっていると彼は嘆く。

 以前、滋賀県にある佐川美術館を訪ねた折、同館にある佐藤忠良館にこんな文句の書が飾られているのを見た。いわく、「藝術は人生の必要無駄」であ ると。なるほど、と感心した。無駄なのである。それを生んだり買ったりするのにお金はかかるけど、とりあえず何の役にも立たないものなのである。それを排 除するのが、工業の鉄則である「ムダどり」。つまり「工業モード」は「芸術排除」の言い換えにすぎないということか。

 いやいや早とちりしてはならない。芸術は無駄、ではなく必要無駄だと佐藤忠良先生はおっしゃっている。この「必要」の一言が、たぶんとても重要な のである。私は芸術に愛情と畏れを抱く人間なので、もちろん必要だと思っている。そうでもないと思っておられる方が多いということが、今日の状況を生んで いるのだろうけど。そして、芸術以外にも「無駄のようだけど本当は必要」というものが、いっぱいあるような気がするのである、どんな無駄も無駄には変わり がないから捨てちゃえ、というのは、どうも違うのではないかと。いや、別に証拠はないのだけれど。

追求

 まだ私が電機メーカーの研究所に勤務していたころだから今から20年も前のことになるが、資料室で学術誌を拾い読みしていて、ある強烈な論文を見つけ た。それは権威のある物理学の論文誌に掲載されていたもので、著者はイギリスだかフランスだか忘れたが欧州の大学教授で、かなり高名な物理学者のようだっ た。その教授と助手の間に、このようなやり取りがあったに違いない。

「ブラックコーヒーとミルク入りのコーヒーでは、どうもミルク入りの方が冷めにくいように思うのだが、君、どう思うね」
「いや先生、それは気のせいでしょう」
「そうかなぁ。一丁調べてみるか」

 ということで、研究が始まる。その様子を論文はあますことなく伝えているのである。

 まずは、同じ温度、同じ量のブラックコーヒーとミルク入りコーヒーを同じカップに入れて用意し、同じ環境下に置いて温度変化を測定する。この結 果、ブラックコーヒーの方が冷めやすいことが証明されるのである。ところで、それはなぜなのか。まず教授が思いついたのは、「ブラックコーヒーは黒いか ら、ミルクを入れて白っぽくなったコーヒーより放射熱量が大きい」という仮説である。早速その熱放射の差を産出し、どれくらい温度低下の速度が変わるかを シミュレーションしてみるのだが、結果はシロ。その影響はあるが微弱で、実験で示されたような「冷め方の差」には遠く及ばなかった。

 そこで研究は一頓挫する。仮説立てからやり直し、試行錯誤を繰り返す。そのうちに、やっと結論が見えてきた。コーヒーの蒸発量に差があったのだ。 液体が蒸発する際には、気化熱分の熱エネルギーが液体から奪われる。つまり、蒸発が多ければ多いほど冷めやすいということになる。では、その差はどうして 生まれたのか。その原因ももちろん論文では検証されている。ミルクに含まれる乳脂肪分に秘密があったのだ。その脂肪分がコーヒーの液面を覆い、その蒸発を 抑制していたのである。

散逸

 まあ、無駄な研究である。とりあえず、何の役にも立ちそうにない。けれど、何だかスゴいと感動した。こんな研究をしてみようと思うことがスゴい。 それを論文に仕上げ、著名学術誌に投稿したところはもっとスゴい、それをアクセプトして掲載してしまう学術誌の人たちの心意気も、負けないくらいスゴい。 欧州というのは、何ておそろしいところなのだろう。それが正直な感想だった。こりゃ、かなわんと。

 先日、研究所時代の同僚に会った。業績不振ということもあり、それが流行りということもあったのだろう、ターゲットや事業化時期が明確でない「無 駄な」研究はすべて停止となり、今や残っている研究テーマは、事業部の下請け仕事と、国家プロジェクトなどの「ヒモつき案件」だけになったとぼやいてい た。もちろん研究者も激減し、非研究職への転換をきらった者たちのほとんどは、会社を辞めて大学や韓国など外資系企業に行ってしまったという。

 無駄を削れば経費が浮いて利益が増す。短期的にはその通りだろう。ただ、長期的にみたとき、そんなことで本当に大丈夫だろうか。何となく大丈夫で はないような気がする。具体的にどのような悪影響が出るのかは、よくわからない。けど、それを突きつめてしまえば、たとえば次のような研究成果はもう出て こなくなるかもとは思う。

許容

 先年、食料・医薬品材料などを手掛ける林原グループの中核企業の一つ、林原生物化学研究所の研究開発担当役員の方にうかがった話である。林原グ ループはそもそも明治年間に水飴屋として創業したということもあり、糖の研究が盛んに行われていた。そんな中、ある研究者が「甘くない糖」を開発してし まったのである。

 上司は当然、「どうするんだそんなもの」と聞いた。けど、研究者に「こいつは売れる」という確たる感触があるわけではない。ただ「面白そうで しょ」というだけなのである。それでも上司は研究の中止はさせなかったようだ。そしてめでたく、甘くない糖は製品として完成する。いよいよ量産、発売とい うことで、今度は役員会にかけられた。幹部たちも一様に「どうするんだそんなもの」と首をひねったが、「やめとけ」とは言わなかったらしい。スゴい人たち である。

 結果は大ヒット。和菓子などのメーカーなどから矢のような注文が殺到し、幹部たちはあんぐり口を開けてその報告を聞いたという。消費者は「甘さ抑 え目」を好むようになってきた。菓子メーカーとしてはこの要望に応えなければならない。けれど、甘味を抑えるために砂糖の使用量を単純に減らせば、テリが なくなったり本来の食感が損なわれたりしてしまう。そこでこの「甘くない糖」が引っ張りだこになったというのが、そのカラクリだった。

 ちなみに林原グループは、その研究開発力だけでなく、メセナ活動に熱心な企業としても知られている。グループ傘下には先代社長のコレクションを核とした「林原美術館」があり、1万件にのぼる東洋の古美術品を収蔵、公開しているのだという。

 「必要無駄」の信奉者は、さすがに一味違う。


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