≪「日本語」の教育特区≫
東京都世田谷区は、小泉内閣時代に「構造改革特区」のひとつ「日本語教育特区」として認可された自治体である。その結果、昨年の新学年から区内の小中学校では「国語」のほかに「日本語」という科目が教えられるようになった。立派な教科書もできている。
まず1年生ではエンピツの持ち方からはじまり、「草の葉に かくれんぼする 蛙かな」という一茶の俳句だの、道元の「春は花…」という短歌などリズム感のある詩歌がつぎつぎに教えられる。杜甫の「遅日 江山麗しく…」などもある。
ふつうの「国語」では学年ごとに教育漢字が配当されているが、そんなことはおかまいなし。むずかしい漢字だってどんどん教えてしまう。2年生になると毛筆 のつかいかたも加わる。蕪村、啄木、牧水、そして高村光太郎から室生犀星など近代の作家の作品、漢詩では李白、王維など。
3、4年生では 百人一首すべてが収録されていて圧巻である。作者はご承知のとおり、紀貫之、和泉式部などから藤原敏行朝臣、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)といった、 わたしでもすっかり忘れていた歌人の名前がぜんぶ書いてある。そして、これをおぼえてカルタ遊びをしてみましょう、というわけ。新聞記事の読み方も科目の なかにはいっている。
≪小学校で英語必修の愚≫
高学年になればなるほど「日本語」教科書はむずかしく「徒然草」「方丈記」もでてくる。能、浄瑠璃などの伝統芸能の鑑賞もある。漢詩も張継、白居易など続々と登場する。
なによりも1年生から6年生まで連続して「論語」をすこしずつ学習する。むかしの「素読」とおなじで、とにかく意味がわからなくてもなんべんも声にだしているうちに記憶し、記憶からだんだんに深い意味がわかるようになるのである。
もとより、この「日本語」教育の結果、区内すべての小中学生が百人一首を暗記できるようになる、というわけではない。「子曰く、巧言令色、鮮なし仁」のたぐいの成句をスラスラといえるということでもない。
いや、およそのことは忘れるだろう。しかし百人にひとりは詩歌のひとつくらいは記憶するだろうし、おとなになってから芭蕉、啄木、李白の名をきいて、なにやらおぼえているような気がするだろう。そのていどでも「日本語」教育には意味がある。
この「日本語特区」をひきあいにだしたのはほかでもない、3年後に日本の小学校高学年で英語を必修にする、ということが決定されたからだ。わたしの意見で は小学生に英語を教えるなどというのは正気の沙汰(さた)ではない。母語である日本語の基礎がちゃんとできてから外国語を勉強するのならはなしはわかる が、日本語の語彙(ごい)が貧困で、敬語も使えず、なにをきいても「すごーい」「おいしいー」のほかに自己表現の言語をもたないこどもに英語を教えてなに になるのか。日本語の表現力のない人間が英語でなら表現できるというのであろうか。とんでもない。
≪母語ととのっての外国語≫
英語は幼児期からやっておいたほうがいい、という教育学者や教育ママがいる。これもマユツバである。論者はピアノ、バレエその他の技芸を例にあげて幼児教 育の利点を説く。英語もおなじだ、という。だがこれはまちがっている。ピアノ以下、お稽古(けいこ)ごとを3歳、5歳からはじめるのは、あれが「芸」であ り「技術」であるからだ。しかし言語というのはむずかしくいえば概念操作であり、思想である。ここらをごちゃまぜにしてはいけない。
くりかえしていうが、母語がととのってからの外国語である。母語のタドタドしい人間が外国語に流暢(りゅうちょう)でありうるはずがあろうか。
わたしはかねてからテレビ画面にでてくるタレント諸氏はもとよりアナウンサー、解説者、そしてその原稿や字幕をつくっている関係者の見るも無残、聞くも不快な「日本語力」に呆然(ぼうぜん)としている者である。せめて次世代のこどもにはまともな日本語を勉強してほしい。
だから、英語を小学生に、というのはおヤメなさい、とわたしはいうのである。そのかわりにちゃんと母語たる日本語教育を充実すべきだ、と主張するのである。
小学校英語はかならず失敗する。いったん決まったものは変えられない、などとおっしゃるな。あれやこれや法律をつくってはそれが矛盾破綻(はたん)して 「見直し」に明け暮れているのが現状ではありませんか。将来、「見直し」作業をなさらぬよう、「日本語特区」という野心的なこころみを対極に置いてしたた めた。
(かとう ひでとし)
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